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人に対して「意地悪」な気持ちになっている時には

自分にプレッシャーをかけることは、時には必要なことだと思う。
が、それによって溜まったストレスを、自力で発散・解消しきれなくて、
その「捌け口」に他人を巻き込み使ってしまうようになるくらいなら、
そんなプレッシャーなら、
やっぱり自分にかけないほうがいいのだ、と思う。いかなる場合でも。

「自分で自分に厳しく、他人にも厳しい」
それ自体は、別に悪いことでも何でもない。
が、問題なのは、
「自分で自分に意地悪、で、他人にも意地悪」
みたいになってしまうことである。
ここでの「意地悪」の定義を、「人を、傷つけて、痛めつけてやりたい」というような気持ち(微かなものでも――この「微かな気持ち」ってのが、自分でも案外気づきにくかったりするのだ。)としようかと思う。
人は、他人や社会から(場合によっては「自分から」ということもある。――いや、これ結構あると思う。)、傷つけられたり蔑ろにされたり暴力的に扱われたりすると、それを他人にもしてやりたくなる習性が、多少なりとも、誰にでもあると思うのだ。
つまり「意地悪」は、「連鎖反応」が大半だと私は思っている。

「私が(私の基準で)自分にこれだけ厳しくしているんだから、
あなたも(私の基準だけど)同じように自分に厳しくするべきだ。」
こんな人も多い。
「基準の共有」は構わない。だって本来、基準とはそういうものだから。
しかし、それには事前の「すり合わせ」は必要不可欠なはずだ。
何故なら、そもそも「基準」なんてものは、
人の数だけ存在もするからだ。
しかし、その「すり合わせ」「意志疎通」をすっかりとすっ飛ばして、
有無も言わせず何でもかんでも理由もなく
「自分の方へと」同調させようとするのは、
ある種の「意地悪」だと私は思う。

「ものの考え方」「感じ方」「時間の流れ方」等々、
皆がそれぞれ違うのは当たり前だし、
そして、そんなことは、実は多くの人が
常々感じて気づいているのではないだろうか。
「それぞれ違う」のほうが本来は自然なのだとしたら、
その「考え方」「感じ方」等々の領域まで、
他人が手を突っ込んで踏み込んで「統制」しようとするのには、
必ず「無理」が生じている、ということを意識しないといけない。
言い換えれば、
どうしても「統制」してみんなが合わせないといけないのなら、
ことさら「本来無理が生じている状態である」ことを
改めて意識し直さないといけない、ということである。



「それくらい我慢すればいいのに」と、
つい私もこれまで度々、思ったり、時には口にしたりもしてきた。

が、たとえば、その人にとってのそれは
「とてもじゃないが我慢できないもの」
の可能性だってある、ということだ。

「耐える」系のことは特に、
「耐性度合いは人によって違う」ということを、忘れてしまいがちである。
で、
「私が我慢しているんだから当然あなたも我慢すべきだ」
という、一見もっともらしいセリフに、
「自分と同じ苦しみを味あわせてやりたい」
「自分よりラクをしている人間がいるだけで許せない」
というような自分の「ごく一個人的な」感情の破片が、
時々含まれてしまったりはしていないだろうか、と私は疑っているのだ。
意地悪の正体は、その
「(よくよく考えてみると)ごく一個人的な」感情と感覚に
帰結しているものなのではないだろうか

(その人は、同じことでも、自分以上に苦しむ可能性だってあるのに。)
(もしかしたら、その人がその同じ苦しみを負ったところで、必ずしもそれは必要がなかったり、意味もあまりなかったりするかもしれないのに。)
……と、そういうような可能性についてまったく考えないままで、
「一個人的な」感情・感覚を、「基準」にすり替えて、紛れ込ませて、
相手に押し付けてしまっているということなのではないか。

――いや、私もそうだ。
私も結局、そういうことについて、身に覚えがあるのだ。

だから、「自分に厳しく」「自分にプレッシャー」については、特に、
「やらされる」のではなく、つまり
「自分に対して暴力的にならないこと」を肝に銘じながら、
「自分で選んで納得した上でやっている」ということを確認し続けるのが、
何よりも大事なのだろう。

そう、私達は、自分でいつでもやることを
「選んで」いるはずではあるのだ。
「仕方なく」だとしても、「仕方なくやる」ということを、
選んでいるのだ、――自分で。
だから「何を犠牲にしてでもとにかくやりたくない、これをやることを選びたくない」という場合は、やらなくていいのだ。
で、「自分で選んでやっている」「自分で選んでいい」というそのことを、
ルーティーンみたいな日々の中で、
何故かどうもついつい忘れてしまうものだから、
時々、自問自答もするようにしたいと思うのだ。

その「自問自答」すべきタイミングを、見極めるサインの一つが、
もしかすると、人に対して「意地悪」な気持ちになっている時、
なのかもしれないともまた思う。

そんな自分の気持ちに気づいたら、自分に問い直そうと思う。
そして、他人に対してまで意地悪に傾いてしまう、
そんな自分の気持ちくらいは、自分の気持ちなのだから、
(それがほんの小さなものでも
――いや、小さいそんな気持ちの萌芽こそ、
自分でないと気づけないだろうから、)
せめて誰より先に感じ取ることができる人間でありたいと思う。