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#9 買い物依存症だった母の寂しさに触れて、泣いた夜

この連載は、長年生きづらさを抱えていた私(KOTOBUKI)が、セラピストのKANNA(かんな)さんとの出会いをきっかけに、初めて自己の内面と深く向き合い、本来の魂の道を生き始めるまでの完全実話の手記――。

サイキック能力のあるKANNAさんを介して、成仏できていない母と対話をすることになった私。

母がこれまで溜めていた負の感情を初めて吐き出せたことで、成仏へと一歩進んだのが前回のお話↓↓

その際、KANNAさんから「お母さん(H子さん)は、たくさん思いを抱えていそうなので、できたら次のセッションまでの間に引き続きお話してみますね!」とのありがたい提案があり、私は「見えない世界のプロにお任せしよう」と委ねたのだった――。


母が生きていたころの記憶がよみがえる


KANNAさんに、母と話をしてもらえるかもしれないと聞いて、正直ホッとしている自分がいた。

私への恨みを抱えているという母と直接話すのは、あまりに息苦しくてヘビーなものだったから。

セッションが終わって帰宅すると、もうヘトヘトで、思わず布団に横になってしまった。1時間半ほど寝ていただろうか。窓の外はすっかり暗くなっていた。

あわてて夕食づくりにとりかかると、ふと母が生きていたころの姿が脳裏によみがえってきた。

あれは私が小学校高学年のころだろうか。

専業主婦だった母は、料理はそこそこ上手いほうだったが、だんだん調理をするのが面倒になったのか、出来合いのおかずが増えていった。

買ってきてくれたコロッケやとんかつがおいしかったので、私は気にも留めず、むしろ喜んでいたぐらいなのだが、次第におかしいと感じ始めたのは、母が掃除や片づけをまったくしなくなってからだった。

台所のガス台は油でベタベタで、キッチン台の上には使ったままの調理道具や調味料であふれている。何日か前に作った煮物やカレーの残りが鍋にこびりついたまま置いてあるのはしょっちゅうだった。

ある日、学校から帰ってきたら、台所にあるはずの鍋やフライパンがなぜかソファの上に置いてあった。

「なんでこんなところにモノが置いてあるんだ! 片づけろよ」

見かねた父が、母によく怒っていた。気が強くきっちりした性格の姉は、母の謎の行動に対して、いつもぷりぷり文句を言いながら片付けていた。

私はと言えば、何をしていたのだろう。何もしていなかったかもしれない。

ただ、一つだけ覚えているのは、母が大量に野菜を買ってきては8割がた腐らせてしまうので、それを時々ゴミ袋に入れて捨てていたことだ。

毎日のように市内の大きなデパートに行って、出来合いのおかずや自分の洋服や化粧品を買ってきては部屋のあちこちに散乱させる。

自分のやりたいこともなく、ただぶらぶらと日中を過ごし、浪費を続けている母親を、私は軽蔑するようになった。



人生を放棄してしまった母


私は母親のようになりたくない。

「地方の家を出て、東京の大学に行きたい」と、中学時代から切望していたのは、そんな母親の姿を見ていたくなかったからかもしれない。

今思えば、母は買い物依存症だった。
いや、もうすでに何らかの心の病に侵されていたのだろう。
 
何もすることがなく、何かをする気力もなく、買い物だけが空虚な毎日を埋める生きがいになっていた。せめてフラダンスでも、フラメンコでも、何か楽しめる趣味でもあればよかった。

だが、母は本当に何もやりたいことがなかったのだ。

そのうえ、父からも姉からも、私からも見下されてしまったら、無価値感にさいなまれてもおかしくはない。もう生きていたくないと思っても、不思議ではないだろう。

現に母は、私が中学に入ったときから病気がちになった。50歳前後でⅡ型糖尿病を発症したが、自分で食事制限をしたり、運動をしたり、病気をよくする努力は一切していなかったように見えた。

ついに動脈硬化になり、狭心症を発症。とうとう、私が社会人2年目のときに脳梗塞で倒れ、左半身を悪くした。

「もう、私の人生なんて、どうでもいいや」

そんな風に、母はいつの頃からか、自分の人生を放棄してしまったんだと思う。

ずっと感じたくなかった母の孤独に触れた


家族の誰もが、母の寂しさや虚しさに気づけなかった。
正直言えば、気づきたくなかった。

私は、母から逃げた。東京へ逃げた。
母の底知れぬ暗闇に、触れたくなかったからだ。

今、母の苦しみに思いを馳せてみたら、みぞおちのあたりが「ううっ」と苦しくなった。

きっとこれだ、私が最も感じたくなかったのは――。

母はどれだけ寂しい思いをしてきたのだろう。

いつも仕事や人付き合いで家を空けがちだった父から、愛されている感覚とか、大切にされているという確かな感覚が得られなくて、「私の存在って何なんだろう」って思いながら、家でひとり過ごしていたのかもしれない。

それを思うと、本当にいたたまれなくなる。

これまでずっとずっと感じたくなかった母の寂しさや孤独感に触れてみたら、なぜだか忘れていた過去の記憶が次々と呼び起こされてきた。

それは、母が私にしてくれたことだ。

私は小学生のころから喘息持ちだったが、発作が起きると、真夜中だろうがすぐに飛び起きて、病院に連れて行ってくれた。遠方の宿泊学習の宿で、発作が起きたと知らせが入れば、父と車に飛び乗って迎えに来てくれた。

私の喘息をよくしようと、どこからか漢方薬を入手して毎日煎じたり、治ると評判の鍼灸院を見つけてきたりした。

過保護と言えば過保護なのだが、母があきらめなかったおかげで、私の喘息は治った。

中学時代には給食がなかったから、毎朝弁当をつくってくれていた。弁当のふたを開けると、煮物の汁がご飯を茶色く染めていて、その度にげんなりしたけど、おかげで購買部でパンを買わずに済んだ。

その頃にはすでに母の心は病んでいたのだろうが、そんな苦しみの最中に、よく毎朝5時台に起きて弁当をつくってくれていたなって思う。

大学のときもそうだ。私はほとんど実家に帰らなかったけど、母からはよく食料品が入ったダンボールが送られてきた。

カップラーメンにレトルト食品、即席みそ汁。その中に、手作りの肉じゃがが入ったタッパーがあって、私はそれが一番うれしかった。すぐに電子レンジであっためて、口いっぱいに頬張る。ちょっと濃い目の味付けが、やっぱり母だなと思いながら食べていた。

記憶の底の底に眠っていた、母が私にしてくれたことの数々……。それらを思い出したら、なんだかやたら泣けてきた。



私は、母がしてくれていることをただ当たり前のように受け取っているだけで、なんの感謝もしていなかった。むしろ邪険な態度で接してしまうこともたびたびあった。

なのに、変わらず、愛情を届けてくれていた。苦しみの中、母なりに精一杯の愛情を届けてくれていたんだなって気づいたら、涙がどんどんあふれてきて。49歳にして、初めて母を思って、声を上げて泣いた。

「ママ、大学のとき、一度も帰らなくてごめんね。一番苦しいときに助けてあげられなくて本当にごめん。ママが私にしてくれたこと、思い出したよ。ありがとう。ありがとうね」

キッチンで泣きながら、見えない母に向かって思いを伝えた。



それから5日後のことだった。

KANNAさんに会うと、開口一番、驚きの言葉をかけられた。


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