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足元を見て歩く

山に登るとき、頂上を見てはいけない。果てしなく思えて、心が折れてしまうから。
ただ足元を見て一歩一歩積み重ねれば、いつのまにか頂上に着くことができる。

みたいな言葉をどこかで聞いた。

私はたまに元バイト先の同僚と山に登るのだけれど、確かにそうだな、と思う。

頂上までどのくらいあるかなんて考えず、足を踏み出し続けていると、ふと振り返った時、驚くほど高いところまで来ている。

登り始めた地点が恐ろしいほど遠くに見えて、あそこまで歩くのなんて無理だ、と思うけれど、
実際私は登ってきたわけで。

自分の感じる「無理だ」って感覚なんて、まるであてにならないことを実感する。



毎日生きている中での感覚も、これにすごく似ていると思う。

先のことを考えると、

例えば、
自分の理想とする自分の状態になるまでどのくらい果てしない距離があるのか、とか、

生きていくのに安心なお金を貯めるには、いつまでどのくらい働き続けなきゃいけないのか、とか、 

結婚するなら、子どもを産んで育てるなら、いつまでに何をするべきなのか、とか、

強く生き抜いていくために必要なスキルや経験を得るためには、どれだけのことを始めて、続けなくてはいけないのか、とか、  

考えると、足元がグラグラしてきて崩れていきそうになる。

どれもが果てしなく遠くまで広がっている山道で、どこをどう通れば辿り着けるかなんて見えるわけもない。

ただ「遠い」ことばかりが頭の中を回る。


だから、足元だけを見て進むことにしてみる。
頂上までどれくらいあるかなんて考えない。ただ、日々の目の前をことを淡々とこなす。

そうしていると、精神的にすごく穏やかになる。
強い不安を感じたりしないし、ちょっとした幸せに満たされることもできる。


でもふとある時に、顔を上げてしまう。
見たらこの平穏さが揺らぐことがわかっているのに、やっぱり気になってしまって、

日々の私に、意味があるのかどうかが。
道を間違えていないか、進んでるつもりで戻ったりしてないか、足踏みしているだけなんじゃないか。

見るな、見るな、と思いながらも、見て、
また足元がグラグラする。



最近はそんなことの繰り返しで、

いつか、振り返ったとき、「こんなところまで来てたのか」って驚けるときが来て欲しい。


そのためにはやっぱり、たまには顔を上げて、確認しなくちゃいけないのかな。

足元に、「こっちだよ」って標識がずっとあったらいいのに、と思う反面、

もしそうだったとしても、私はきっと顔を上げて、自分の目で見ないと踏み出せないんだろうな、と思う。

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