ことばの筋トレノート『記号論への招待』


本書を読んで、ブランドづくり、デザイン、芸術、言語、経営など、あらゆる人工物を「文化的記号」と捉えて解釈することができるのではないかと感じた。
その中心となるのは「人間にとっての価値」「機能」「意味」である。 記号の性質を捉えることができれば、私を取り巻き、私が生み出すあらゆる人工物への創造的アプローチの新たな切り口を得られるのではないか。

幼児がことばを習得する過程というのは、何年も知らなかった自分のまわりの世界を整理し、秩序立てていく過程でもある。 幼児も外国人も、このようにして自らの世界を段々と膨らませていく。そして、このような過程を通じて一つの言語の取得が完了した段階では、取得者は一つの意味づけの体系を身につけたことになる。

この過程が基本的には、すでに述べたような記号を通じての「創造的」な営みであることには疑いはない。幼児にとっては全く未知の新しい世界を、外国人にとっては自らのものとは異質の新しい世界を、それぞれ築き上げる営みである。 彼らが身につけるのは、取得することばの決まり(「コード」)によって支えられた既存の世界秩序である。
p8

外国語を話しているときの自分と、母国語を話しているときの自分の違いに戸惑う。私の外国語能力の向上をモチベートしているのは、「日本語で話しているときのように、友人と外国語で話したい。本当の自分を表現できるくらい、外国語がうまくなりたい」ということである。
しかしそれは的外れな欲求なのかもしれない。記号論的には、言語が異なれば、それは違う世界に生きているようなものなのだ。言語体系が異なると、世界の整理のしかた、秩序も異なるのだから。
「自己同一性」というものへのこだわりを捨て、「外国語で会話している自分(誰か)」を私は受け入れるべきなのだろうか?

芸術における創作は、しばしばことばに比較される。芸術家の自己表現がことばの持つ表現という基本的な機能と結びつけれるからである。

「絵は言葉である。……絵には文法と辞書がある。」 芸術的な創作はそのような「しきたり」ないし「慣習」を踏まえての活動であり、その意味でことばを使っての表現活動に類比される。
p26

だから、芸術はことばを用いて鑑賞しなくてはならない。優れた芸術作品をみて、感動する。その感動が心の見えないどこかに溜まっていって、デザイン、コミュニケーション、あらゆる創作活動に「勝手に」作用してくれるような「創造性の泉」のようなものを想定すべきではない。
ことばを用いて美を鑑賞し、頭にあることばの泉を満たす。そこから創造性は生まれる。ことばの筋トレである。

「贈答はコミュニケーションである」と言われるような場合にも、このことが関係していることは明らかであろう。単にものが移動するというだけでなく、それに託された気持ちも相手に届き、送り手と共有され、両者を結びつける絆が出来上がるわけである。

そしてコミュニケーションの意図が入っている限り、移動するのがたとえ物であっても、それは単なる「モノ」ではなく、意味を担って「記号」となっていることにも注意したおくとよい。そのような「意味」を帯びている限り、贈与行為も意味作用の発生の場として記号論的な考察の対象となる。 p37

ここに記号論のレヴィ=ストロース的構造主義の側面が見られる。(もともと記号論の存在を暗示していたソシュールの言語論から構造主義は生まれた。思想的文脈を感じる) 贈与とコミュニケーションこそが人間の本性の一つである。これが人間社会の基本構造・骨格である(ラカンは社会の零度と読んだのだったか)。
人間と動物を隔てる構造的特徴。この構造を無視した社会・組織は、なんであれうまくはいくまい。コミュニケーションを怠ること、コミュニケーションを重視しないこと。一方的で、相手を思いやることのない、「想いを贈る」ことを無視したコミュニケーションを繰り返す文化。そんな組織を山ほど見てきた。自分も、痛いほど見覚えがある。
素晴らしいアイデア、有能な人物、潤沢な資源は組織の成功の要因にはならない。それらが揃っていても、人間社会の基本構造を無視した組織は、必ず崩壊する。

ひとたび身につけた意味づけの体系ーそれが監修として確立すると、それは逆にそれを身につけた人を捕らえて離さない「牢獄」にもなる。捕らえられた人間は、その意味づけの体系の決まりに従って、ものを捉え、行動する。人間は機械のように動き、全てが「自動化」する。何かが起こっているようで、実は何も起こっていない。そういう世界が生じてくる。
詩人は何よりもこの言葉の牢獄に挑む人たちである。そこでは日常のことばを超える言語創造を通じて、新しい価値の世界が開かれるわけである。

人間は、自分のまわりの物事に対して意味づけをしないではいられない存在である。しかもその際の意味づけは、すべて人間である自らとの関連で行われる。自然的な対象であっても、それが人間との関連でどのような価値を有しているかという視点から捉え直され、人間の世界のものとして組み入れられる。その世界は、すぐれた意味での文化の世界である。そして、そのような世界の創造、維持、それから時間的・空間的いずれもの意味における伝達ーこういった全ての文化的な営みに、人間が記号をあやつるという営みが深く関わっている。人間は確かに「記号を使う動物」なのである。
pp9-10

もし伝達の目的を正確に達成しようとするならば、メッセージを構成する記号とその意味は発信者が恣意的に定めるのではなくて、受信者との共通の了解に基づいた決まりに従っていなくてはならない。このような決まりが「コード」と呼ばれるものである。「コード」には、大まかに言って、伝達において用いられる記号とその意味、および記号の結合の仕方についての規定が含まれる。
p39

「コード」が本書における最重要概念のひとつ。
発信者が受信者に贈りたい(伝えたい、コミュニケートすることを望む)思考内容は、目に見えるものではない。人は他者のために、その思考内容と一致する意味作用を伴った「メッセージ」として知覚可能な形に変換される。これが記号である。
記号化だけでは、思考の伝達という目的は完全に達成されない。その記号とその意味は、受信者との共通の了解に基づいた決まりに従っていなくてはならない。この共通の決まりが「コード」である。受信者は、コードを参照にしながら受け取った記号を読み取り、その伝達内容、発信者の思考内容を再構成する。 このコードが、牢獄として人間の思考や行動を、無意識下でコントロールしている。人はそこから抜け出すことは容易ではない。詩はそのコードから抜け出すための優れた手段であるらしい。

記号論は人間が疑問に思うこともなく、日常的におこなっているコミュニケーションの構造を明らかにしている気がする。これはデザイン意味論に対するアナロジーとして非常に役に立つ。
人工物のデザインという記号は、コードから逸脱してはいけない。たとえばグラフィックデザインにおいて、整列・コントラスト・一貫性といったコードから外れると、デザインという記号に込められた「意味内容」を正しく伝えることができない。デザインにおけるコードは、「人間の認知的性質」という最強の共通の了解に基づいている。
しかし、デザインはこのコードに従うだけでは不十分である。このコード化だけをやるデザイナーはただの作業員である。 デザイナーは、人工物に意味を付与し、その意味がわかるように伝えることが仕事である。意味がわかるように伝える部分は、コードが担う。受信者(多くの場合最終消費者)に贈りたい思考内容が、デザインにおける意味である。
意味を正しく伝えるためにコードを駆使する。それがデザイナーである。 コードから逸脱すればするほど、芸術に近づく。後で出てくるが、コードから逸脱した記号を読み取るには、コンテクストに対する比重が大きくなる。
とはいえ、デザインにおいてもコードに従っているだけのクリエイティブは退屈で、情報に溢れる時代では飽きられてしまう。コンテクストという補助線を無視すべきではない。

極端な場合を考えるならば、一方でメッセージが全面的に「コード」に依存して成り立っているならば、「コンテクスト」の参照は不要である。他方、逆にメッセージが全面的に「コード」から逸脱しているならば、「コンテクスト」を参照するより他はない。

いずれにせよ、「コード」への依存が減れば減るだけ、「コンテクスト」への依存度が高まる。それ故、相対的に「コード依存型」のコミュニケーションと「コンテクスト依存型」のコミュニケーションとを区別することができるわけである。
p48

「コード依存型」コミュニケーション:

  • 論理的な文章

  • 商業デザイン

  • プレゼンテーション

「コンテクスト依存型」のコミュニケーション:

  • アート

  • 詩(歌詞)

ここで重要なことは、この二元論で捉えるべきでないということである。『この二つの場合を両極として、その中間にいろんな段階がありうるわけである(p48)』 デザイン、ひいてはブランドにはコードもコンテクストも必要。コードだけしっかりしていても退屈。コンテクストを意識しないと、受信者に対して絶対に刺さらない。

「記号」という形で捉えるにせよ、また「記号機能」という形で捉えるにせよ、そこに見られるのは「あるものが別のあるものを表す」という規定に含まれている二つの「あるもの」の間に相互依存の関係が存在しているということである。この二つの項を「記号表現(シニフィアン)」と「記号表現(シニフィエ)」と呼ぶことにする。そうすると、「記号」ないし「記号機能」は「記号表現」と「記号内容」という二つの項の相互依存の関係に基づいて成り立っているということになる。
p68

ソシュールのシニフィアンとシニフィエが記号論においてやはり中心的な役割を果たしている。

  • グラフィックデザインである企業ロゴ、LPのトップページ

  • 製品の外観デザイン、パッケージデザイン

  • コピーライティング

これらはシニフィアン。これらにおけるシニフィエをどのように設計するのか、それがデザイナーの仕事。シニフィエは意味。意味はことば。ことばで他者に寄り添ったメッセージを込める。 これからは意味の時代。消費者にとって意味のあるシニフィエのないクリエイティブをする企業は淘汰されるのは間違いない。では、どのような意味を込めるべきなのか。そもそも意味とはなんだろうか。

なかでも一番の問題は、「記号内容」とは「指示物」なのか、あるいは「意味」なのか、ということである。

「意味」の場合は対照そのものよりも、それを「いかに捉えるか」ということが重要になってくる。前に触れた「ことば」の持っている「価値づけ」ないし「意味づけ」という働きが、ここに介入するのである。 略 このように考えてくれば、人間の言語では「記号内容」の規定が一般に「指示物」としてでなく「意味」としてなされているのは、極めて自然だということになる。
pp88-93

記号内容が指示物ではなくて意味である、ということの理論的な背景は、ソシュール以降の言語学でも、ヴィトゲンシュタイン後期の研究でも、アプローチは異なれど結論は同じ。
つまり、「TOYOTA」のロゴは「TOYOTA自動車という尾張に根を張った世界最大の自動車メーカー」を指しているのではなく、そのブランドが持つ意味を表現しているということである。
写真という記号の内容も、中央に配置され、あるいはピントがあっている指示物(あるいは特定物・対象)ではなく、その写真としての「意味」が重要であるということ。

写真や絵画の場合には、言語に見られたような「線条性」ということは該当しなくなり、テクストとしての写真なり絵画が全体として一挙に提示されるという形をとる。しかし、実際には、見る人間の視線は写真なり絵画のいくつかの部分を次々に走査していくわけであり、その際も、例えば人間と木が写っている場合はまず人間の方に視線が向けられるとか、色々な色合いがある場合は例えば赤がまず注視されやすいとか、ある程度の傾向があることも知られている。しかし、写真や絵画の場合は、こういった部分の走査の後で必ず全体として見てみるということが書かされることはないであろう。このよういん全体として提示するという写真や絵画に見られる性質は「現示性」と呼ばれ、言語に見られるような「線条性」と対比されることがある。
p140

プロダクト/ブランドづくりの過程で生み出される人工物には、この「線条性」「現示性」をそれぞれ持つ。コンバージョンや視認性などは、こうした記号としての性質を踏まえた上で最適化されるのではないだろうか。 EC、LP:「線条性」「現示性」の両方を持ちそうではあるが、「全体としてみる」という性質を持たないため、どちらかというと線条性を持つ人工物であると言えそうだ。 広告:写真を中心としたビジュアルが重要であるが、一方で文字情報も含めて「全体として何が言いたいのか」ということを受け手は考えるであろうから、「現示性」の人工物と言えそう。 コピー:これはいうまでもなく「線条性」のある人工物。

人間はコードに従うことができると同時に、コードを変えたり新しく創り出したりして、世界を開く。すでに見てきたとおり、この営みは人間の用いるもっとも重要な記号体系である「言語」に典型的に現れる。
p175

言語を用いて、人は世界を認識する。その人の言語の境界線が、その人の世界の境界線を規定する。 言語というコードという軛から自らを解き放つことで、私たちは世界を開く。 あるいは、自らの発する言語やデザイン、芸術を用いて、他者をコードから解き放ち、世界を開く。 創造的な人間は、言語を正しく用いなくてはならない。ことばの筋トレ。

いわゆるテクストの「ジャンル」(この場合、別に「詩」や「小説」といった文学的なジャンルに限らず、例えば「広告表現」とか「式辞」、「法律の文章」などといったものも含まれる)は、メッセージの受信者に対してそのメッセージがどのような「意図」で生産されたかを示すコード的な規定と言えよう。与えられたメッセージの「ジャンル」が明らかであれば、受信者はその「ジャンル」と平均的に結び付けられる発信者の「意図」を念頭に置いてそのメッセージに対し、それとの関連で解釈、評価することになる。この意味では、「ジャンル」とは発信者のメッセージ生産の「意図」ばかりでなく、受信者のメッセージ解釈の「態度」を規定するコード的な機能を持っているということである。
p189

これはビジネスにおいても非常に重要なポイントである。
消費者の各接点において、プロダクト/サービスの「ジャンル」を先行刺激として与えることの重要性がここから見てとれる。
消費者との各接点、特に最初期の接点において、プロダクト/サービスが「どのようなジャンルなのか」ということを明確に、効果的に、直感的に、簡潔に伝えることが非常に重要である。
そして消費者が目の前のプロダクト/サービスの媒体の「ジャンル」が明らかな状態にした上で、プロダクト/サービスのメッセージの解釈=「意図」に向き合ってもらう仕組みを作らなくてはならない。
しかし、これがおそらくすごく難しい時代である。 メッセージが溢れかえり、メッセージ生産の「意図」まで辿り着いてくれないことの方が多い世の中。「意図」の作り込み(ブランドの世界観)も当然重要だが、同等かそれ以上に、各接点における「ジャンルの伝達」を効果的に果たさなくてはならない。
また、たった今、目の前で製作しているクリエイティブ(SNS広告・LPのライティング/写真・EC・メルマガ)において、受信者がどのような「態度」(ジャンルの先行刺激の状態)でそれらを受信するか、を考えてメッセージを生産しなくてはならない。

「メッセージそのものへの志向性」とは、テクスト生産者の立場から言うと、何かあることをを伝えるためにメッセージを作るとか、自分の気持ちを表したり、相手を動かしたりするためにメッセージを作るといったことではない。そのような「外」的な目的にためにメッセージを作るのではなくて、メッセージを作るということ自体が自己目的化されるようなメッセージ作成のことである。

ただ事務的に何かを伝えれば良いと言うのではなくて、それをいかに伝えるかと言うことが重大な関心ごとになるわけである。 略 記号がコードに従って定められた枠内で用いられている限りは、本質的な意味での新しい意味作用の創造はない。ということは、「美的機能」は必然的に規制のコードを超えると言う働きを含むと言うことになる。 略 要するに、「メッセージをコードから解放する」と言う営みを伴うことになる。
pp197-198

「メッセージそのものへの志向性」がもつ、記号の「美的機能」は、詩が「美」であることを説明するためのものであろう。なぜ詩が美しいのか、どうして詩は芸術なのか。それはメッセージをコードから解放しているからである。
これは詩のみならず、芸術にも言えるのではないか。
その時代ごとの革新的なアートの意味。遠近法は、宗教的テーマからの転換は、ジャポニズムの衝撃は、キュピズムは、バンクシーは、枯山水は、琳派は、それまでのコードから芸術家のメッセージを解放したからこそ革新とされ、時代を象徴したのではないか。
テクノロジーやビジネスモデルにも言えるのではないか。 グーテンベルグは、複式簿記は、フォード生産方式は、インターネットは、iPhoneは、ChatGPTは、それまでの社会システム(封建・資本主義)のコードを破壊した。だからこれらは「美しい」と呼べるのかもしれない。
従来のコードから外れたからこそ新しい美として成立する。 美とは、「コードからの解放」がその一つの性質なのかもしれない。これは、「美の社会的性質」と呼べはしないだろうか。(対義語は、「美の生物学的・本能的性質」である)
ここから得られる重要な示唆は、「社会的性質を持つ美を生み出すため/その美に親しむためには、コードを学ばねばならない」ということである。これはある意味で逆説的ではあるが、本質的でもある。
「コードから解放された美を生み出すためには、コードに精通していなくてはならない」 コードに精通する手段はただ一つ、知識を得ることである。 美と知識はこうして繋がるのではないか。

語の「意味」あるいは記号の「記号内容」はそれが適用される物事の「価値」を表しているわけである。

人間が自分の周りに配している文化的対象は、その多くが自らの必要に供されるものである。このことから、文化的対象の記号内容ーつまりその文化的な「価値」はーは、しばしばその対象が人間にとっていかに役立つかーつまりその「機能」という形で規定できる。「道具」はその典型的な場合である。

「機能」を記号内容とみなすということによって、多くの文化的対象を「記号」として扱うことが可能となる。例えば「建築」が記号論の対象として取り上げられる時は、多くはそのような視点からである。 略 全く異質な文化圏の建築物に接すれば、我々はそのような建築を構成する対象の「意味」を改めて認識させられる機会を持つであろう。

しかし、人間の周りの文化的対象の中には、「機能」ということがそのものにとっての一番重要な意味合いであるとは言い難いものもある。例えば「宝石」はどうであろう。古代の日本人にとっては、ヒスイは特別な意味を持っていたと言われる。 略 古代の日本人にとって文化的対象としてのヒスイの意味したものは何かということになれば、それはおそらく勾玉の材料となるという「機能」ということではなくて、生命の力を宿しているというその「価値」であろう。

人間が関与する限り、「価値」とは「人間にとっての価値」ということになれば、それが「人間との関連で果たす価値」ということになる。「価値」が「ある機能を持つこと」になるのが多いのは、その意味では当然である。 pp226-228

商品・サービス、企業経営、デザインも全て人間が生み出した人工物であり、文化的対象である。そしてこれらも全て、記号論の対象として取り上げることができそうだ。
商品・サービス、企業経営、デザインには機能がある。それは人間にとっての価値としての機能である。機能無くして、それらは文化的対象たり得ない。機能を果たすことは、これらの人工物にとって根本的な価値である。これらを設計し、生み出し、運営するために、機能が発揮されるようにしなくてはならないということを忘れてはいけない。
同時に、これらの人工物が人間にとっての機能だけを満たしているだけで生存が許されるルールは成熟した資本主義には存在しない。 商品・サービス、経営、デザインといった人工物は機能を超えた「価値」を持たなくてはならない。
その「価値」とはなんだろうか。色々なことばで表現できる。他者からの見られ方・ステータス、自己確立・他者との違い/同一化、豊さ・平和の象徴。 これらを「意味」と呼ぶのか「アイデンティティ」と呼ぶのか、何が正しいかはわからない。
しかし、それらは「人間との関係で果たす価値」であることは確かである。 「人工物は人間との関係性のもとに価値を生み出さなくてはならない」という人間中心性。これはとんでもなく当たり前に思えるが、見落としがちであり、忘れがちである。
では、「人間」とは誰だろうか。 その人工物は、「誰」の方向を向いているだろうか。株主?経営者?同僚?生産者?デザイナー? 「あなた」ではないだろうか。
「あなた」とは、人工物の「価値」を届けるべき、人工物に「価値」を見出してくれる「誰か/その人」である。 商品・サービス、経営、デザインといった人工物は「あなた」に届ける記号でなくてはならない。
経営者は、その記号内容を、「あなた」との関係で果たす価値という視座から、朝から夜まで絶え間なく考え続けなくてはならないのではないか。
私たちは忙しく、常にストレスに晒され、内からも外からも絶え間なく刺激を受け続ける。この当たり前のことを、当たり前に続けることがいかに難しいか、しかし重要か、私はまだ理解していないのではないか。

すでに見てきた通り、意味作用というものは基本的には、記号表現と記号内容の間の相関関係を通じて成立する。そのような関係が成り立っているとき、そこには「記号」が存在するわけである。ところが、場合によっては、すでにそのようにして記号として成立しているものが全体として記号表現となり、それに新しく何らかの記号内容が対応するという形で、いわば一段高次のレベルで意味作用の生じることがある。

二つの異なるレベルでの意味作用を説明するのに、「表示義」と「共示義」という区別をすることがある。まず第一のレベルで、roseが「ばら」という記号内容を通じて意味作用を行なう。この場合の記号内容が「表示義」である。次に「ばら」という記号内容を含むroseという記号全体が記号表現となり、それが新しく「愛」という記号内容を得て、より高次のレベルで意味作用を行う。この場合の記号内容が「表示義」である。 略 「共示義」というものは、本来、既存の何かを超えたレベルでのあたらしい意味作用の可能性の提示という生活を持つものということである。 略 場合によっては「共示義」としてコード認知されるようになったり、さらに「表示義」にとって代わって、それ自体が「表示義」として定着することもある。
pp120-122

プロダクトやサービスをデザインする上では、この「表示義」と「共示義」の記号論的なアプローチは役に立つのではないだろうか。
水野学さんは、「アイデアは今の延長線上になくてはならない」と述べている。つまり、コンセプト・ビジュアル面で、アイデアはユーザーに理解しやすい「表示義」としての形態をまず取らないといけないということだろう。
例えば、「クルマ」をデザインするにしても、その外観やコンセプトは当然、「クルマ」という共示義が明確に伝わらなくてはならない。どんなに斬新でも、表示義としてクルマのデザインであるという記号内容が容易に伝わることが最低限必要である。
ただし、表示義だけではサービスに付加価値がつかない。共示義で新しい記号内容を付加していく営みが、ブランディングではないか。フェラーリであれば、「クルマ」という表示義以上に、「ラグジュアリー/F1/ステータスシンボル」としての共示義が強烈にユーザーに対して働いている。 デザインにおいて、「表示義」は物質的な人工物(プロダクトそのもの、グラフィック、写真)であるが、「共示義」はことばとして成立するのではないか。

一般的に文化対象を「記号」と考える場合、その対象の持つ文化的価値が、その「記号内容」すなわち、この場合に「表示義」である。

文化的対象の「記号」としての性格がもっとも明確な形で現れるのは、それが本来の「表示義」のレベルよりも「共示義」のレベルで機能するようになった場合である。例えば、弾くわけでもないのにピアノを買って置いておく、読むわけでないのに百科事典を買って飾っておく、といった場合である。いずれの場合も、買われたものはその本来の機能(表示義)を果たすのでなく、〈余裕のある生活〉という「共示義」のレベルで機能させられているわけである。そこでは、他人に見せたいという人間のあからさまな(あるいは、ひそかな)欲望に支えられて、「何か他のものを表す」という「記号」本来の機能があらわになり、人間は文化生活を築く財の代わりに、せっせと「記号」を買うことになる。
p230

記号=表示義と共示義で成り立つ。
文化的対象の「記号」(多くの場合は人工物)=表示義(機能)と共示義(意味)で成り立つ。 人工物に共示義(意味)を付与する場合、人間の本能(欲望)に支えられる必要がある。
言い換えると、人工物の表示義は、人間の本能との関係性の中で規定されるべきであるということ。そしてその本能を持つ「人間」とはどのような人か、どこで何を食べて、どのような交友関係を持ち、どのような経済的状況なのか、を想像しなくてはならない。
ピアノを製造・販売するならば、ピアノが持つ表示義を入り口に、共示義を考える。
百科事典の表示義(機能)とは、
・音が出る
・高価な値段で取引される
・歴史がある
・高価な材質を使用して製造される
・製造には高度な職人技術を要する
・使いこなすには長時間の訓練が必要である

ここから、「表示義=機能」とは必ずしも「その人工物の身体的な使用」に限らない仮説が立つ。
これらを入り口に、共示義を考える。
・音が出る

・高価な値段で取引される
→所有することで、余裕のある生活を他人に見せることができる
・人工物としての歴史がある
・高価な材質を使用して製造される
→部屋に設置することで、古典的な内装を他人に見せることができる
・製造には高度な職人技術を要する

・使いこなすには長時間の訓練が必要である

人工物の共示義(意味)を埋められない、、難しい。
私がどれだけ「意味」について考えてこなかったのか、それを思い知らされる。
ヴィトゲンシュタインは「意味とはその使用である」というようなことを言っていたし、クリッペンドルフもこの文脈でデザインの意味論的転回=人間中心性を説いた。
意味について改めて深く問いたい。同時に、自らの生み出す人工物の意味は常に考え、人間に寄り添い、アップデートを続けなくてはならない。

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