古い絵本の味わい

相変わらずきかんしゃトーマスが大好きな2歳の息子。テレビアニメ、絵本、グッズを問わず、トーマスがらみのものにはとにかくよく食い付くので、図書館でもトーマス本を片っ端から借りている。

『きかんしゃトーマス』の原作は、1945年にイギリスで創刊された『The Railway Series』という絵本シリーズ。その日本語版である『汽車のえほん』シリーズは、1973年以降に順次発行されていて、近くの図書館にはそのシリーズも置いてある。新しいトーマス本ほど貸出中のことが多いので、それらの古い絵本を借りることもよくある。

昔の絵のタッチは今よりも劇画調で、正直ちょっとこわいと感じるほどなのだが、意外にも息子はあまり気にならないようで、古い絵本でも「ゴードンや!」「これは ヘンリー!」と同じように盛り上がっている。デイジーにいたっては、どう見ても今とは別キャラにしか見えないのだが、さほど違和感を示すことなくどちらも「デイジー」として受け入れていて、子どもの頭の柔軟さに感心させられている。

いろんな年代のトーマス絵本を日々読み聞かせていると、やはり発行年をさかのぼるほど、今ではあまり見かけなくなった言葉遣いも出てくる。

読んでいて古めかしさを感じるものの一つに、理由・原因を表す「~から」という接続助詞がある。現代の感覚では「~ので」を使う場面で、「~から」が使われていることがちょくちょくあるのだ。

たとえば、1978年1月発行の『大きな機関車ゴードン』(桑原三郎・清水周裕訳)のこんな文。

アニーとクララベルは、大がた機関車ゴードンを たいへん そんけいしていましたから、トーマスのたいどには、まったく びっくりしてしまいました。

この「そんけいしていましたから」、昭和の香りを感じるのは私だけだろうか。もちろん、今も話し言葉では、「もう遅いから帰ろう」のように「から」も普通に使うが、書き言葉では「~ので」が一般的になっているのではないだろうか。絵本に限らず、古い書物になればなるほど、「~でしたから」「~であるから」といった表現をよく見かける気がする。

そんなことをぼんやり考えていたら、つい最近、身近なところでも書き言葉の「~から」に出くわした。保育園で年に一度提出を求められる、「家庭状況調査票」である。

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指導の参考としますので、部外には出しませんから、ありのままをおかきください。

全体的に、昭和の香りがぷんぷん漂うフォーマットと内容なのだが、この一文がさらにそれを引き立たせているような気がする。もちろん前半に「ので」が使われているので重複を避けるためというのもあるだろうけど、それにしても、今だと「部外には出しませんから」という書き方はしないだろう。まぁ、言葉の違い以前に、そもそも今は個人情報保護について、こんなざっくりした書き方はしないだろうけど。

という余談はさておき、一昔前の絵本は、文体や言葉選びだけでなく、装丁や絵のタッチ、文字フォントなども含め、なんとなく時代遅れ感が漂っているものも多く、以前はどちらかといえば新しいものを選びがちだった(『ぐりとぐら』や『はらぺこあおむし』などの大ベストセラーを除き)。図書館の本だと、古いほど紙が黄ばんでいたり汚れていたりして、どうしても見劣りするせいもある。本屋へ行っても、自分が子どもの頃にはなかったような魅力的な絵本が山ほどあり、ついつい平積みされた新しい作品に目がいきがちだ。

けれど、古いトーマス本を何度も何度も読んでとせがむ息子を見ていると、新しいとか古いとかいうのは大人の感覚であって、それに初めて触れる子どもにとってはどれも新しいんだよなぁと気付かされる。

言葉遣いだって、なんとなく現代の言葉に近い方が好ましいような気がしていたけれど、よく考えれば、いくら標準語のイントネーションで絵本を読み聞かせようが、息子の発話は完全に関西弁だし、きっと物語中の言葉と自分で話す言葉は、切り分けて処理できるのだろう。

きっと、その時代時代で子どもたちの心を掴んできた絵本には、言葉やジェンダー的価値観などの古さを差し引いても余りある魅力が詰まっているんだろうなと思う。

そんなわけで最近は、息子が好きな絵本に出会うチャンスを奪ってしまわないように、自分の凝り固まった価値観や「息子はきっとこれが好きだろう」という勝手な先入観をできるだけ捨てて、幅広い年代やジャンルの絵本を探すように心がけている。

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