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『きかんしゃトーマス』のルースさんを通して考えた女性の役割語のこと

『きかんしゃトーマス』が大好きな2歳の息子。脳のメモリの大部分をトーマスが占めているんじゃないかと思うほど、たくさんのキャラクター名や、各エピソードでこの次はこうなるといった場面展開まで覚えていて、日々感心させられている。

元々名前が分かるのは主人公のトーマスだけだった私も、息子と一緒にテレビアニメを見たり絵本を読んだりするうちに、だんだん詳しくなってきた。

そんななかで、ルースさんというキャラクターの話し方(日本語吹き替え/翻訳)に興味を引かれた。ルースさんは、日本のテレビ放送では去年初めて登場したキャラクターで、機関車ではなく人間の女性。とても快活で聡明な発明家という設定だ。

ルースさんの吹き替え台詞をいくつか挙げてみたい。

「お願いできるかい、トーマス」
「君はどこで働いているんだ?」
「もうすぐ分かるぞ、トーマス」
「踏切をスムーズに渡れただろう?」
「それじゃ、出発だな」
「ちょっと2人とも、どういうつもりだ?」
「それは大変だ、急がないと」
「さあ、これからがお楽しみだ。一緒に橋を完成させよう、トーマス」
「だけど危なかったぞ、クレオ。線路を走る前に、まずは道路を安全に走れるようにならないとな」

これらの台詞を文字で読んだだけでは、男性か女性か分からない、あるいは男性キャラクターかなという印象を受ける人が多いのではないだろうか。

そう、女性キャラクターにありがちな、「~だわ」「~よね」「~なの」「~かしら」といった、いわゆる「女言葉」、つまり女性の役割語がことごとく排除されているのだ。レベッカやニアなど、他の女子(?)機関車の台詞には女性らしい語尾が普通に使われていることから、ルースさんについては意図的にこのような配慮がなされているのが分かる。

私は初めてルースさんの吹き替え台詞を聞いたとき、正直なところ、少なからず違和感を覚えた。日頃、フィクション中の女性が「女言葉」で話すことにあまりにも慣れすぎていて、女性の声で「~だぞ」「~だな」という言葉を発していることに不自然さを感じたのだ。

普段自分が台詞に違和感を覚えるのは、役割語が過剰な場合ばかりなので、それが抑制されていることで違和感を覚えるというのはとても新鮮な感覚で、自分の中の矛盾も感じた。

ところが、そんな違和感も最初のうちだけで、エピソードを重ねてルースさんというキャラクターに慣れるにつれて、この人はこういう話し方をする人なんだという認識になり、今では何の引っかかりもなくなった。もはや、「~なの」とか言うルースさんはルースさんじゃないと思えるくらい、ぴったりはまっていると感じる。

もちろん単に耳が慣れたというのもあるだろうけど、それ以上に、自分の感覚がアップデートされたような気がしている。この感じ方の変化は、たとえば昔初めて女性の車掌さんを見たときに覚えた違和感や驚きが時の流れとともに消え去ったことや、「スチュワーデス」から「客室乗務員/CA」、「保母さん」から「保育士さん」といった言葉の変化に適応していったのと、感覚的によく似ている。

まだ頭の柔らかいうちに『きかんしゃトーマス』のルースさんに触れた子どもたちは、これからまたどこかで「女言葉」を使わない女性キャラクターに出会っても、そういう話し方のキャラクターとしてごく自然に受け入れるのではないだろうか。少なくとも、私が最初に感じたような不自然さを感じることはないだろう。それって、とても良いことだなぁと思った。

女性の役割語については、「今どきそんな話し方をする女性はいないのに」といった批判をよく見聞きする。生身の人間が演じている映画やドラマ、実在人物のインタビューの翻訳や吹き替えなどでは、たしかに自分もそういう感想を抱くこともあるし、現実に使われる言葉に近い方がリアリティが増すような気はする。

けれども、特にアニメや小説などでは、各登場人物に個性を持たせたり、誰が何を話したかを視聴者や読者に分かりやすくする上で、役割語はなくてはならないものだとも思う。それに現実の世界でも、性別などの属性が違えば言葉遣いに差が出るのも事実。なんでもかんでもルースさんのように、女性の台詞から役割語を削るのがよいとは思わない。そうではなく、むしろトーマスの世界のように、役割語をゴリゴリに使うキャラクターもいれば、ルースさんのように極力抑えられたキャラクターもいるというのが、あるべき姿なんじゃないかなと思うようになった。

つまり、役割語をなくそうとするのではなく、現実世界の言葉とは別次元で、でも現実世界を反映しながら、どんどん多様化させていくのが自然で望ましい流れなんじゃないだろうか。男性だから「男言葉」、女性だから「女言葉」、このカテゴリーに属する人だからこの語尾、といった画一的な割り振りではなく、各キャラクターの個性に合わせていろんな役割語のパターンがあっていい。「男言葉」にも「女言葉」にもグラデーションがあってしかるべきだし、ルースさんのようにどちらにも振れないキャラクターがいてもいいし、見た目は男性だけど女性らしい言葉遣いをするキャラクターがいてもいいし、いわゆる「オネエ言葉」を使わないゲイのキャラクターがいてもいい。各キャラクターの言葉遣いが、ことさらに属性を際立たせたりキャラ立ちさせるためではなく、そういう話し方をする人として説得力をもって設定され、「この人はこういう話し方の人なんだな」と自然に受け止められる世界って、いいなぁと思うのだ。

もっとも、私は最近のアニメやドラマにかなり疎いので、自分が知らないだけでそんな動きはとっくに起きているのかもしれない。あるいは、役割語というのはそんな単純なものではなく、「多様化すればいい」というのは浅はかでとんちんかんな意見かもしれない。ただ、少なくとも私自身は、ルースさんという女性の役割語を使わない女性キャラクターのおかげで、自分の中に潜んでいた自分の信条に反する古い感覚に気付き、アップデートすることができた。

そもそも、原作のルースさんが、アフリカ系女性という性別的にも人種的にもマイノリティに属する存在でありながら、自立心、聡明さ、たくましさ、人間的魅力を兼ね備えた発明家として描かれていること自体が、長い歴史で見ればとても画期的なことだろう。また、最近の『きかんしゃトーマス』では、ルースさんに限らず、女子(?)の機関車や重機のキャラクターもどんどん登場していて、全体的にジェンダー平等や多様性への高い意識が感じられる。そんな諸々も踏まえて、日本語版の翻訳者の方やスタッフの方々は、ルースさんの台詞からできるだけ役割語を排するという選択をされたんじゃないかなぁと、勝手に妄想して、勝手に心の中で拍手を送っている。

そして、息子を含め、たくさんの子どもたちが今の『きかんしゃトーマス』を観て大人になった未来の社会は、少なくとも今よりは、皆が生きやすいものになっているんじゃないかなぁと、楽観的に想像したりしている。

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