自分の過去の話。

なんかなんとなく書きたくなったから書くんだけど、
自分の過去の話。
今まで基本的には隠したかったんだけどやっぱり逃げられない事実だから話しようかなと思いますね。

まあ生まれた頃からきっと少しおかしかったんでしょう。
多分。
喋り始めた最初の言葉なんて「あお」「きいろ」「くろ」で「ぱぱ」「まま」なんて言わなかったわけだし。
もしかしたら人生始めての親不孝なのかもしれない。

3歳になってもおしゃべりはできなくて、四歳から幼稚園に入ったんだけど、
幼稚園に入っても言葉の教室に通っていたのはよく覚えている。
その時に問題だったのは人見知りである。
今でも人見知りはしないけど、成長過程で人見知りは必要どころのはなしではない。
幼少期の人見知りは親などの頼れる、愛せる存在の認知のために必要で、
これがないと思春期や思春期が終わったあとに愛着障害を引き起こすこともよくあり、実際、俺に普通の愛なんてわからなくて歪んでるし、親のことが好きと思えないどころか、親の関わる環境が苦手で逃げることもザラではない。
自分は愛されないし、愛されててもわからないし。
自分は誰かの一番になれないこともわかっている。
もおいいもん...

話は戻して小学校。
あまり気持ちを読み取ることのできない子で、
取り柄は元気や笑顔。
こてっちゃんの笑顔でみんな明るくなるなんて大人に変な期待を与えられるのが大人から見た俺であった。
もちろんそれは面白くない人も出てくるだろう。
子供から見たらクズなのに大人からは俺の笑顔で見えなくなるのだから。
3、4年はいじめられていた。
よく泣いて家に帰ってきていたのかもしれない。
自分でも覚えていない。
確かなのはこのときから本格的に自傷行為が始まったことである。
その自傷行為というのが髪の毛を自ら抜くことだった。
いわゆる抜毛症である。
「ストレスで脱毛症になったんじゃないの?」
と勘違いされがちだが、脱毛症は勝手に抜けていく別の病気。
抜毛症は自分で抜くという大きな違いがある。
前髪がすっぽり三角形になくなって、もしもう少し地肌が白かったらおばけと言われるほどきれいな三角があった。

こんな形でついていた。

抜毛症は完治しているわけではない。
今でもたまにやるし。
実際あった人はわかると思うがおれが髪を伸ばす理由は抜いたのがバレないようにするのも一つである。

5、6年のとき、それらは少しづつなくなった。
クラス替えでいじめっ子とはクラスが離れ、先生も親身な先生になり、自傷行為をやめられるような努力を手伝ってくれたり、発達障害で起こる不向きなことをできるだけ周りと合わせられるようにしてくれたりした。
いじめがなく楽しかったのかもしれない。
平和だったことだけは覚えている。
卒アルもほぼ6年生で、宿泊学習だけ5年生という感じだったから、アルバムだけ見たら幸せ者に見えるかもしれない。きっと可愛かった100%純粋なこてつはこれで幕を閉じたのだろう。

この頃変化はもう一つあった。
小6(厳密には5年のオフシーズン)のときに中の良かった友だちに誘われ野球を始めた。今まで習い事がスイミングスクール(水が怖いのを克服するため)と書道(字を書くのがきれいで好きになるように通ったはずが毛筆以外大嫌いになった。)しかやってこなかったため、チームプレイと相手と対戦すること。道具や場所が揃うだけじゃ何もできないという人の大切さを知るいい機会担ったのかもしれない。
うちのチームは当初、黄金世代ともいわれた時代で、初心者には到底レギュラーは取れなかった。
そりゃ一年で練習試合含め100試合やって80勝ちょい行くようなチームである。当たり前とは思っていたが、それでもいいチームに入ったのか、自然に努力できて、認められて、勝ち試合や人が少なめの練習試合、四年生や準レギュラーの試合に出してくれるなど色々してもらった。
初めて努力が報われた瞬間かもしれない。
それすらも今は覚えていないが、たしかに楽しかった。
一番スタイルがいい時でもあった。

中学になると、他校の小学と合同になり、またいじめの対象になった(?)わけである。
中1はまだ可愛いもので、喧嘩で一方的にやられてるくらいで済んでいた。
多少はみんなとコミュニケーションも取れて普通に笑えていた時期である。
問題は野球部である。
先輩のいじめの対象になった。
チャリの鍵をどこかにされたこともあるし、チャリのタイヤを曲げられたこともある。伝統だった、夏休みの工作で作ったトンボも破壊された。バカにされる、殴られる蹴られるはもうあったかどうかすら覚えていない。
中2でクラス替えするといじめ(?)は悪化した。
多分よくされるようになってからは一日一回は暴力されていただろうし、当たり前にバカにされていた。
一度二度くらいは先生に相談したかもしれないが、もちろん変わることはなく、先生が教室にいるときに殴られても、日常生活過ぎて何も言われなかった。
多分何回も殴られて蹴られてるし、筆箱ゴミ箱に(北海道弁とかじゃなく)投げられるし、シャーペンは曲げられる、給食の片付けは押し付けられた。給食に関しては、放送委員やっていた影響で給食の時間に教室で給食を食べていなかったのに、帰ってきたら無残像に置かれてることもあった。出席番号で座ると前と後ろのやつが主犯格で、テストのときにわざと放送入れたのにされた。逃げたのバレたのかもしれない。
トラウマになったのはやはり殴られた記憶とかかもしれない。本読んでたときに辞書で思いっきり頭殴られてくらんだ記憶とか、石投げられて、その石一個分上だったら失明するレベルで怪我したとか、音楽の時間が出席番号で座っていたからか標的にされて四方八方から色々されたりしたことだろうか。坊主頭だった俺の頭に油性ペンで書かれて取れなかったこともある。
俺の唯一の救いは放送局だったかもしれない。もともとうちの学校の放送局はやりたい人が自分で入部テスト的なことを受けて初めて入れるものだった。人も少なく、自分のことを何も思わずに関わってくれる人ばかり(同期に関しては全員)だった。
とてもありがたいことだった。
テストのときも、その時は俺が放送入れるように変えてくれたり、優しかった。
後輩とも仲良くできて、息のあう後輩もいた。
もうあまり覚えてないがそこが救いだったのはしっかり覚えている。
内容までは覚えてないけど。

高校も人間関係失敗したことからハブられる標的にはなった。
奇跡的に中学のこともあり、鋼のメンタルで、何も響きはしなくて、ただ居づらいだけだった。
そんな中でもよく喋ることかはできたから楽しかった。
独りだったけど。
そんな中でハブった主犯格が掌返しで逆にハブられ不登校になった。そのハブられるやつが「更生する」とかよくわからないこと言われて少し増しになった頃、一緒にご飯食べたり移動したりする友だちができた。
だんだん仲良くなって、壁もなくなったくらい。
独りじゃなくなった反動でメンタルが崩れ落ちた。
確かにその子達もワケアリだったからか、理解してもらえて、人の暖かさに初めて触れた気がした。
そこからリストカット、フラッシュバックが始まった。
辛かった。
その代わりに幸せだった。
そんな感情に揺さぶられながら高校生活を過ごすうちに、縁があって誘われてnoteを始めた。
そこからは自分のnoteを見ていただければわかるだろう。

皆さんは今回の記事にいじめで?を使っていたのはご存知だろうか。
高校入って中学の時のいじめていたときに言われたのが「別にあれ遊びじゃん?」と言われたことがホントなのか違うのかわからないからである。
更に辛くする言葉でもあった。

そんなほぼ愚痴になったが、それが私の過去である。
どうか許してほしい。

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