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私は今日もあなたの好きだった歌を歌う      逢坂 小太郎

金曜日の帰り道、私はいつかのバーへと足を向けた。ここに来るのは何年ぶりだろう? まだ彼と付き合っていた頃だから三年ほど前になるはずだ。
 最近自宅は居心地が悪い。私は二十八歳になっても東京の東の端の実家から都心の勤め先に通っている。年齢が年齢なので母に結婚はまだかだの、孫の顔が見たいだのとプレッシャーをかけられている。
 平日は私が遅く帰るので余りそういう話にならない。
 問題は休日だ。一日中寝て過ごしたいのに、早くに母に起こされる。互いに不機嫌だとまあ衝突する。いつも腹を立てて私が家を飛び出すパターンだ。仕事で疲れ、家で疲れ、私には居場所がない。

 そんな帰りたくない気持ちでいっぱいでとりあえず近くの店、と思った時にこのバーを思い出した。八丁堀から茅場町駅へ向かう途中の路地裏。道路側は全面ガラス張り、テーブル席が三つと喫煙席である白木のカウンターが五席、照明が明るい店だ。
 私はタバコを吸わないのにカウンターに腰掛ける。いらっしゃいませ、の声とともに灰皿が目の前に置かれた。どうも、と頭を下げておく。
 今日は昼食が遅くなったからつまみ程度でいいだろう。
「すみません」
「はい、お伺いします」
 バーテンダーの柔らかく響く声にほっとする。
「カヴァとミックスナッツを」
「かしこまりました」
 バスケットのショートスローのような短いやりとり、職場でもない、家でもない、アウェーなんだけれども温かい空気が嬉しい。

 彼とこの店に来た時もカウンター席に座った。でも彼も喫煙者ではなかった。いつもはふざけるのに、タバコを吸わない理由を聞くとキリッとした顔をして「酒の味がわからなくなるから」と言ったのを思い出す。
 珍しくキザだな、と思うと「ウソウソ、本当は匂いが苦手なんだよ」と破顔した彼。
 今、どうしてるのかな? ふとまれにそんなことを思う。今日もそういう日か、などと考えているとバーテンダーの声が割って入った。
「カヴァでございます」
 バーテンダーがカウンターにフルートグラスを滑らせる。
「いただきます」
 かろうじて聞こえるほどの声で言って、スパークリングワインに口をつける。こんなの飲むなんて久しぶりだなぁ、いや待て、そもそも仕事以外で外で酒を口にすること自体が久しぶりだ。
 やきが回ったのかな、などと思いながら生まれては消えるグラスの中の泡を見つめる。
 麦で出来たビールよりもブドウで出来たワインの方がエレガントな感じがする。それも発泡性となると尚のことだ。
 私はこのお酒が似合う女になれなかったな、と思う。大人の余裕も、知性も落ち着きもない。そしてエレガントな空気感も。
 なぜ銀座や六本木などと言った華やかな街の近くで働いているのにそういうものを手に出来なかったのだろう? なんだかなあと思って、またカヴァをひと口飲む。不意に、初めてこのお酒を飲んだ時のことを思い出した。
「フランスの特定の地域と製法で出来たのがシャンパン。スペインのそれはカヴァっていう」
 彼の言葉だ。続けて私に聞いた。
「じゃあ、イタリアのはなんだと思う?」
「何なの?」
「ブタだよ」
 彼のひと言で舞い上がる。
「カバにブタ? 面白い!」
「面白いでしょ?」
「うん、面白い!」
 私はとても嬉しかった。
「じゃあアメリカは?」
「ワニ」
「ポルトガルは?」
「トラ」
「パプアニューギニアは?」
「ニワトリ」
 この辺りでさすがにおかしいことに気付く。
「ねえ、嘘ついてるでしょ?」
 少し強い口調で私が言うと、「嘘じゃなくてジョークだよ」と彼は笑って言った。かっこいいというより、お茶目な、かわいいところのある男性だった。
 好きだったな、と思う。
 好きだったな? だったな、と言っているということは、もう彼のことを私は好きではないのだろうか? 私は好きでもない男性のことを思い出して喜びと悲しみを同時に抱くような女なのか? 訳分かんない、ホントどうかしてる。今度はあおるようにカヴァを流し込んだ。なんか酷く苦い。
 いいお店に来てるのに辛気臭くなっちゃうなー、と思いながら視線の先に並ぶ酒のボトルたちを眺める。その中に懐かしい名前を一つ見つけた。
「白州……」
 いつだったか彼と行った蒸留所を思い出す。JR中央線に早朝から揺られて、東京の西端の八王子の更にまだ山梨県側の高尾駅で乗り変えて甲府のずっと向こうまで日帰りの旅をした。
 甲斐駒ケ岳の麓、新緑の中に蒸留所はあった。もうそこは森だった。美しい木々に差し込む陽の光が柔らかに光って、さわさわと水が流れる。この水か、と思った。この水で出来るのか、あのウイスキーは。
 工場見学を終えると、ワンショット数百円のウイスキーの試飲を二人でした。場所は銀座の老舗バーのカウンターをそのまま持ち込んだ薄暗い特設のバー。テイスティンググラスでの乾杯はなんだかいつもとは全く違った。大人になったな、と感じたのを覚えている。

 あー、彼に会いたくなってきた。
 独りで美味しいお酒を飲んでも、なんか寂しい。でも、今日は彼のことを思い出しながら彼の好きだったウイスキーが飲みたい。意を決してバーテンダーを呼ぶ。
「すみません」
「はい、ただいま」
 少し離れた場所にいたバーテンダーがこちらへやってくる。
「白州を、ロックで」
「かしこまりました」

 カラン、とロックグラスで氷が躍った。
 あれ? 何杯目だ? 酔いで回らない頭で考える。飲み過ぎたなあ、明日はゆっくり寝よう。母に起こされても無視だ。
 なぜか飲めば飲むほど、彼のことばかり考えてしまう。カバンからスマートフォンを取り出して、ラインを起動して、彼のアカウントを検索する。そして何か送ろうか送るまいか、とこの三十分繰り返している。
 酔いに任せて勢いで行くのもありかな、でも返事がなかったら傷付くし……どうしよう?
 色々と考えた末に、「久し振り」、「今日、白州飲んだよ」とだけ送った。この短い言葉を送るだけにずいぶんと時間と労力を使った。仕方ないじゃないか、だって彼がどうしてるか気になるんだもん。彼女、いるのかな? SNSで見る限り、結婚はしていないみたいだけど。でも、誰かしらいるんだろうな。だってステキな人だったし……。
ショック、受けるよなー。泣くかなー? 思えば彼と別れた頃、私はとてつもなく荒れたのだ。連日号泣して、彼にもらったプレゼントをごみ箱に押し込んでは取り出し、また押し込んでは取り出しとしていた。仕事中、突然泣きそうになってトイレに駆け込んだことも何度かあった。あんなに好きだったのに、なんで別れちゃったんだろう? 分かんないなー。

三年前のことを思い出す。
「ユキちゃんさー」
「なあに?」
先を促すと彼は続けた。
「オレさ、大阪転勤、決まったんだよね」
その言葉に一瞬フリーズした。
「でね、ついて来てくれないかな? オレたちもう付き合って長いし、落ち着くとこに落ち着いてもいいんじゃない?」
 それが彼が精一杯照れ隠しをしたプロポーズだということに、すぐに気が付いた。
しかし……
「私、東京離れらんないよ、ケイ君」
 生まれてからの四半世紀、私は東京でずっと育ったのだ。昔からの友人や家族、そして新しく得た勤め先。大学を出て数年しか経たない私にとって、東京を離れる、故郷を離れるということは死活問題だったのだ。
 だが幼い頃から転勤族の父の元で育った彼には、私が東京を離れることが何を意味するのか、分からなかったようだ。そこから行き違いが増え、狭まった私たちの視野では、それが性格の不一致に思えてならなくなった。何よりも、東京を離れる彼、大阪について行かない私は、互いにこのまま付き合い続けるに値しないと思い至るまでにさして時間はかからなかった。
 
 今はどうだろう? 
中途半端なキャリアを持つ女ということで疎まれる職場、早く結婚しろとせっつかれる実家、次々と結婚と出産を重ねる友人たち。彼を手放してまで手に入れたものは、私を苦しめるものに変わった。あの時、彼を選んでおけば……。
またスマートフォンを取り出すと液晶にラインの通知。

「久し振り、ユキちゃん」、「奇遇だね。オレも飲んでるよ、白州」

 そして少し遅れてスマートフォンが震える。
 一枚の画像、薄暗いバーカウンターに緑のボトルに白抜きで“白州”
「あの! お会計!」
 半ば叫ぶように支払いを済ませて店を出る。彼の声が聞きたい。だけど、自分から電話をする勇気がない。少し息の詰まる、だけど全身をほのかに温める感情に、私は包まれていた。
気が付くと彼の好きだった歌を歌っていた。
「さっきまでの、通り雨が、ウソみたいにキレイな、空」
 ここにはいない彼の歌声が脳裏に蘇る。この歌、女性目線の歌なのに、彼が歌うばかりで、私は歌わなかったな。
「私、恋をしている。哀しいくらい、もう隠せない、この切なさは。もっといっしょにいたい、ふたりでいたい、叶えて欲しい夏の憧れ」
 なんか、すごく感情こもってる。ああ、私はまだ、彼のことが好きなのか。だからあの時、あんなに泣いたんだ。だから今も、こんなに胸が苦しいんだ。
「さがしてた、あなただけ」
 そうつぶやきながら彼に短いメッセージをつづる。

「明日、明後日大阪に行く予定があるんだけど、空いてる?」
 最後の五文字を入力するのにとても勇気がいった。不安を振り払い、覚悟を決めて送信した。高鳴る鼓動に任せて、歌の続きを歌う。
「汗をかいた、アイスティーと、撮りすぎたポラロイド、写真」
 彼とムダに撮り合った写真を思い出す。データは消したけれど、二人で横浜で並んで撮った一枚も、花畑の前でバンザイする私の一枚も、ビールを美味しそうに飲む彼の一枚も、ありありと思い出せる。
「あんなふうに、ハシャいだから、帰り道はさみしく、なるよ」
 いちいち今の心情に重なる歌に、なんとも言えない想いになる。
「夕焼け染まる駅のホーム、手を振るあなた、遠くなっていく……」
 永代通りを東京方面へと向かって歩き続ける。もうすぐ、メトロの入り口が見える頃だ。あー、今日も疲れたなぁ。そう思いながら二番のサビを歌おうとした時、再びスマホが震えた。相手が誰なのか、確かめもせずに電話をとる。

「もしもし」
「もしもし、ユキちゃん?」
 
 懐かしい声に胸がグッとなる。私は心の中で歌の続きを歌う。
『私、恋に落ちてる、苦しいくらい、もう隠せない熱いときめき』

「うん、ケイ君、久し振り」
「急だね、今週末なんて」
 彼が笑って言う。私今、すごいドキドキしてるんだけど、彼はどうなんだろう?
「うん、まあね」
 本当は用事なんてない。ただ彼に会いたいだけなのだ。
「山崎蒸留所でも行く? ユキちゃんの都合次第だけど」
「うん、行きたいな」
 私がそう返すと「えっ、マジで? お茶程度じゃないの?」彼の声が裏返った。
「なに? 山崎蒸留所は冗談? せっかくだし、大阪でしか行けないところがいいの」
 強い口調で私は言った。
「はいはい、分かったよ。山崎蒸留所ね。オレもなんやかんや初めてだよ」
「えっ? 意外。すぐ行きそうなのに」
 彼が苦笑いする。
「行く相手がいなかったんだよ」
 その言葉にドキリと胸が跳ねる。彼は今、フリーなのか?

「ケイ君だったらいくらでも相手なんていたでしょ?」
「いないよ、いたらこうして連絡とらないし」
 私の軽い調子に合わせて彼も重くならないよう明るく言った。
「そういうユキちゃんは?」
「聞くな、バカ」
 多分、目の前に彼がいたら頭をこづいている。

「あのさー」
「ん? 何?」
 電話向こうで首を傾げる彼が頭に浮かぶ。
「あの歌、聴かせてよ。Spuall」
「ああ、福山雅治の? いいよ」
「さっきも歌ってたの」
 私の言葉のあとで少し間が空いた。
「歌詞、覚えてたんだ?」
「当然でしょ? あんなに聴かされたんだから」
「あんなに聴かされたって、人聞き悪いな」
「だってそうじゃん」
「聴き飽きた?」
「聴き飽きてた」
「でも今は……?」
「その歌が、聴きたい」
 私が言うと二人合わせて軽い笑い声をあげる。なんだか昔に戻ったみたいだ。
「じゃあカラオケも行こうか」
 彼がスパスパと決めてくれる。
 メトロの入り口の前で夜空を見上げた。彼も今、この空の下にいるんだなと思う。
「それじゃ、明日着いたら連絡するから」
「うん、じゃあね」
「うん、おやすみ」
「おやすみ」
 私はこの世の幸せの何割かを胸に、茅場町の改札へと階段を下った。

     ――- fin ――

おはようございます、こんにちは、こんばんは。 あなたの逢坂です。 あなたのお気持ち、ありがたく頂戴いたします(#^.^#)