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【薬の服用〜わかるしんどさ】

noteを書くのに初めて3日も空いた。


前回の記事に書いた通り、薬の中身がガラッと変わった。
AD/HDによく効くという薬を朝と夕に2錠ずつ飲むようになってまだ3日しか経ってない。


3日しか経っていないのに、早くも変化を感じた。


生まれて初めて時間がゆっくり流れた。
(いつもは何もかも忘れてゆっくり時間をとるために、年に1回5日間休んで沖縄・南西諸島を旅行していた)




言葉でうまく説明できないのがもどかしいのだが、例えるなら“頭の中がシーンと静まりかえった″ような感じ。
静かな森の中に1人で居るみたい…
いつもの“雑踏″はどこへ消えた…?


生徒ちゃんの期末テスト前で、家庭教師の仕事がクソ忙しいのはいつもの事なのだが、あれもこれもしなきゃ!が突然消えた。



noteを書くことがmustではない事を、主治医から、相方から、叔母から散々言われていた。



『仕事じゃないんだから毎日書かなくても、気が向いたとき、明日でも明後日でもいいんだよ』って。


頭では分かっていても、書かなきゃ!と思い、それが日課になり、いつの間にか書かずにはいられない衝動にかられていた。

自分でも分かっているのだが、過集中しすぎて気づいたら3、4時間経っていた…事も多々ある。


集中している時、テレビの音がきこえたり、誰かからLINEがきたり、話しかけられると気が散る。
結局相方が寝静まった真夜中、あるいは誰もいない翌日の午前中に書いていた。


今の時代はスマホがあって良かった…これを原稿用紙に書く作業だったら、とっくの昔に放棄しただろう。忘れた漢字も入力すれば勝手に出てくる、ありがたい話だ。



昔の作家さんはやっぱりすごいなぁ…なんて思いながら。



1日でも書くことをやめたら、お揃いのカップ&ソーサーのセットが壊れてしまうような焦りを感じ、強迫じみていた。



『60日間連続執筆お疲れ様でした!』
noteの記事をアップするたびに表示されるこの言葉が嬉しくもあり、達成感の一つになっていた。


博識ハルキストくんから、『elenaさんは書くのがはやい!』とよく言われていた。読む方は大変だ。


noteを書き続けて判明した事は、2000文字書くのにザッと1時間半くらい、4000文字を超えると3時間超かかっていた。
4000文字を超える自分の中で“気合いの入った記事“は夜中と翌日に分けて書いた。


それがはやいのかどうか私には分からない。




新しい処方箋を飲み、ベッドの上に座っていると、頭の中がスーッと静まり空っぽになった。

『今日1日くらい書かなくてもいっか…』と初めて思えたのと同時に、今度は何を書いて良いのか分からなくなった。 


相方に話すと『それでいいんだよ、それっていい事じゃない?書きたい時に書けばいいんだよ』と言われ、そうか、そんなもんか、と初めて納得した。



これまでの私の思考の癖は、常にmustかshouldで、白か黒か、100か0か、ハッキリさせろ!みたいなところがあり、それができない自分を責め、周りの人にも知らないうちにそれを強いていた。



だから人間関係が崩れるんだ…今ごろ気づいた。




完璧な人なんて誰もいないのに、自分の決めた事や掲げた目標は、できるだけ完璧に近づけたい衝動にかられていた。

体重の自己管理はできないのに、変なところで几帳面で変にクソ真面目なところがある。





専門的なピアノに関して言えば、私の特性はある意味プラスに働いていた面もある。

上には上がいるのは百も承知で話すが、自分の納得する音になるまで、弾けないところを何時間でも何千回でも、同じところばかり繰り返し練習する事を苦に思った事はない。

ハノン、ツェルニー、バッハ、曲…このルーティンは、クラシックピアノ界隈では昔から当たり前の事として教えられた。

いきなり曲から入る人もいるだろうが、私にはその自信がない。
スポーツで言うところの準備運動をせず、いきなり100mクロールを泳いだら足がつってしまう、それと似ている。

本番前は気分を落ち着かせるために、あえてメトロノームを使い、ゆっくり練習ばかりしていた。それでも納得できる演奏なんて、同じ曲を1000回弾いて1回あるかないか…それくらいの確率だ。




おっと悪い癖が出た…話が脱線した。




“フツウの人″はいつもこんなふうに頭の中が静かで、穏やかなの?


初めて“フツウの人“の頭の中を擬似体験している気分だ。
これは薬を服用している事で、いつもの衝動性が抑えられているのか、頭の中の何らかの物質が“フツウの人“の値に近づいたからなのか分からないけれど、『ま、いっか』と思えるようになり、イライラがおさまったような気がする。



発達障がいの検査結果を、数値化されたグラフとしてもらったとき、その数値の低さにとてもショックを受けた、それも何だかどうでもよくなった。






教職員時代、特別支援学級の授業補助に入り、情緒さんのクラスをみていたときの話だ。
いくつ目かの学校は比較的大きく、特別支援学級は、知的障がいのクラスと、それを伴わない“情緒さん″のクラスに分かれていた。



情緒さんのクラスには、AD/HDをはじめ、自閉症スペクトラム、どちらも重複する子、LD(学習障がい)、軽度な知的障がいとそれらを重複する子、診断名がハッキリつかない子たちが居た。
普通の公立の中学校なので、診断名はついていても比較的“軽め″の生徒が多いのが特徴だ。



ある時、AD/HDの特性が極めて強い生徒が放った言葉が印象的だった。

『頭の中が映画の早送りみたいなの、だからワーッてなるの!』

日常生活が映画の早送りみたいに見えたら、それは大変忙しく苦しいだろう。
物事に集中する前に注意が散漫してしまう。
映画の早送りの画像が、常に頭の中を流れているとしたら、それはとてもしんどいだろう…よく叫びよく暴れる子であったが、それをなだめるのが私の業務であった。

忘れ物が多い事もあり、メモをとるよう促したり、大きな字で書いた表を教室に貼り、目で見て分かりやすいように工夫した。
(これらは特別支援の免許状を取る際の勉強で学んだ事で、とても有効だったので私自身も心当たりがあり、すぐメモを取る癖をつけた)



またある時、情緒さんのクラスでは、生徒たちの学年や持ち合わせる特性も種類が違うので、各々が違う課題プリントを解いていた時の事だ。
確か国語の授業中であった。


学力の高い自閉症スペクトラムの生徒が、授業中いきなりこんな事を私に問いかけてきた。

『先生!俺はたまに石みたいに動けなくなる事があるんですけど、そういうヘンなところがあるから、こんなワケのわかんねー奴らと一緒にこのクラスに閉じ込められているんですか?』


そこに居た数名の生徒と、担任と補助で入っていた私含む全員が、一瞬にして彼の発した言葉に凍りついたのは言うまでもない。

そんな時はすぐに
『今はその話をする時間ではありません、ハイ、プリントの続きしよっか!』と彼に答えた。
授業中、関係のない話題が出た時は、だいたいそうするようにしている。


が、彼の発したその言葉を他の生徒たちも敏感に感じ取っていた。


『おい、今頭がオカシイって言っただろ、お前の方が頭オカシイんだよ!』 

『いーや、俺は前から思ってた!なんでお前みたいなギャーギャーうるさい奴と一緒のクラスなんだよ⁈』


『ハイ、今はその話はしません、終わり!』

もうこうなったら、2人がかりで制止するのも限界がくる。

『先生だってわかってるんですよね?コイツを教室から追い出してください!』

『黙れデブ!お前が出てけ!』


2人の声はだんだん大声で金切り声になり、そこにある教科書やゴミ箱が宙を飛び交い、しまいには大きな音を立てて机を倒したり、パソコンをガッシャーンとやりだした。大暴れの始まりはいつもちょっとした事だ。
授業どころの話ではない。職員室にヘルプコールをする。

物が壊れるのは日常茶飯事だ、何より生徒同士が揉めて怪我をさせてはならない。


他の大人しい生徒は涙を流し、ソファに転がって泣き出した。

もう1名の生徒は“空っぽのロッカー″に閉じこもり、耳を塞いだまま下校時間までずっとロッカーから出てこなくなった。
(特別支援学級は、気持ちを落ち着けるためなど生徒が1人になれる場所として、閉じこもるための大きい空のロッカーが用意されている事が多い)


職員室から2、3名の職員が走ってきて、一体何ごとだという顔をしている。とりあえず状況をパパッと説明し、私は失言をしてしまった彼のほうに、他の職員は暴れた生徒を抑え付けて落ち着かせるのに精一杯だった。


今の時代だからこそ、特別支援学級だとか発達障がいという言葉を目にしたり耳にしたりする機会は増えたが、当時の職員の中には、特別支援学級を軽視する、関わりたくないといったスタンスをとる職員もある一定数居た。
(今も居ると思う)


結局授業は途中で崩壊し、給食もその日は皆がバラバラの場所で食べ、言い出しっぺの彼は
『自分は悪くない!正論だ!』と帰宅するまで“石になって″ビクとも動かなかった。


彼になぜか好かれていた私は、彼が図書室で借りてきて読んでいた本をいくつか紹介された。
本のタイトルを見て驚いた。

・発達障がいに関する本
・2ちゃんねるに関する本(現5ちゃんねる)


休み時間に私を捕まえては

『俺はこの本の中のこの症状なんですか?』

『2ちゃんねるにはこうも書いてあります…やっぱり頭がオカシイ自分みいなのは就職は難しいんですか?』と質問の嵐がくる。

きっと彼は自分が何者なのか知りたかったんだろう。彼なりに納得しない事は、図書室で本を借りて調べ、本やインターネットの情報を元に私に質問してくる。

『私はお医者さんじゃないからね、ハッキリとした事を言える立場ではないの。でもあなたは自分の事を知ろうと努力したんだね、私が中学生の時はそんな難しい本、読んだ事もないよ。今自分ができることをしたらいいよ』

と答えたら、少し満足した様子だった。

この手の質問を教職員にしてくる生徒もやはりある一定数いる。
答えにくいのと、非常にデリケートな質問なので、それらを聞かないフリをする職員も多くいる。



実は全く同じ事を、今度は私自身が、先週水野先生と主治医の杉浦先生にしつこく聞き、彼と同じ行動をとっていた。

知的に遅れがない分、自分がなぜ今こうなのか、なぜ?なぜ?沼にハマり、しかし実際の日常生活では生き辛かったり、しんどかったりする、説明されたらわかってしまう…ショックを受けたり自己肯定感が低くなったり、“分かるぶん″だけにしんどくなる事もある。


当然の事ながら、カミングアウトすると、見ず知らずの人から、または友人とこちらが思っていた人からもフィルターをかけて見られる気がして、避けられたりするのを恐れ、中々言えないのが現実である。無理に言う必要もない。


私も自分の既往歴をnoteに書き始めた瞬間、引いて離れちゃったかな〜?あーあ、きっと避けられているな…と気づいた事もある。

その発言を授業中にしてしまった彼も、きっと同じ気持ちだったんだろうな…

黙ったまま涙を流す生徒も、ロッカーから出てこなくなった生徒も、彼と言い合いになった生徒も、皆口に出さないだけで、お互いに傷つき、どうしようもなく不安でパニックになったんだ…
言っている言葉の意味や、人からの妙な“特別扱い″が分かるからこそ…のしんどさである。


さて、そんな事を思いながらも、今日はテスト前最後の日曜日なのでこれから仕事に行ってこよう。


私と似たような思いをした事がある人、または何らかの特性を持つ家族や友人がいる人、少しでも共感していただけるところがあれば嬉しい。


こういう記事ってデリケートな分、とっても書きにくいからね(笑)




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