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幼少期②

母との2人暮らしに不安を察していた祖父母から、祖父母のいる隣町に引っ越さないかと話があがり、母と私は大きな団地がある県営住宅の一室に引っ越した。
なんでも県住に入居するには大変な順番待ちで、祖父が地元で事業を営んでいたので、その口利きで速攻入居できたと後から聞いた。


と言っても築40年以上経っている古びた県住だ。とにかく古く汚くゴキブリの巣窟のような空き家に入居した。エレベーターもない5階建てのアパート、私たち親子一室だけが母子家庭だった。


祖母が私を幼稚園に迎えに来て、母が仕事を終えるまでの間、祖母の家で過ごす…ここでやっと人並みの子どもらしい生活が送れる…祖母の手をとらないようにと、幼稚園終了後、週に2回、ヤマハ音楽教室とカワイ体操教室に入れられた。


もちろん楽器など家にはなく、何となく母が入れたヤマハ音楽教室で、唯一楽器を何も持たない私がなぜかオルガンを覚えて弾いているという事を先生が不思議がり、小学校に入ったらピアノを習わせたらどうかと母に言ったらしい。
体育が苦手な家系なので、と入れられたカワイ体操教室は一年で辞めてしまった。


母は三姉妹の長女で、1番下の妹が脳性小児麻痺を持つ重度心身障がい者で、施設には一切入れず在宅介護をしていた。私が生まれた時からその叔母(以下佳子ちゃん)と私は過ごしていたそうだ。
佳子ちゃんの知能は2歳くらいで止まっており、歩けないし話せない、発語もほとんどなく自分の事はほぼ何もできない。佳子ちゃんは、私が幼稚園から帰ってきて祖母と3人でフルーツなどのおやつを食べ、一緒に昼寝をしたり、佳子ちゃんを相手に見立てておままごとをしたり(当然おままごとの概念がないので、渡したおもちゃの食べ物をあらぬ方向に投げたりする)人形ごっこをするのだが、その人形の髪の毛を引きちぎったりするので子どもながらに笑ったり怒ったりしていたと記憶している。


母や祖父が帰ってくるまでの数時間が私たち3人にとって天国のような時間だった。


幼稚園では年長から転入してきたという事もあり、徹底的なイジメに遭った。
フル無視、仲間外れ、トイレに閉じ込められるのは朝飯前、そんな事はどうでも良かった。
ただ私を体育座りにさせ、決まった女子7人くらいが順番に助走をつけ走ってきて蹴りを入れる。その中の1人2人が罪悪感からか、弱くするから、すぐ終わるからごめんね、と耳打ちしてきた。幼稚園の先生も見て見ぬふり、母子家庭なので祖母が迎えにくる、徹底的に見下されていたのだ。


ある日私が我慢できなくなり祖母にそれを漏らすと、ものすごい剣幕で主犯格の近所の女子の家に乗り込んでいった。その主犯格の女子とは中学を卒業するまですったもんだする事になる。




一方母の暴力はおさまるどころか、日に日に増していった。やれ別れた父親に私が似ている、漬物の好みが似ているので腹が立つ、色んな理由で殴られては頬を腫らし幼稚園にいくものだから、大人になって同窓会で出会った男子に『レナっていつも顔青かったけど、何なのアレ?』と笑われたので私も笑うしかなかった。
自分の顔が腫れているとか、青いとか気にもした事がなかったので驚いたが、それが周りから見た私の印象だったのだろう。


一時、あまりに暴力が酷いので、母のすぐ下の妹である叔母夫婦が私を東京の家に引き取ろうとしていた。祖父母が私を母に渡さない事も幾度となくあったが、母は狂気の沙汰で『レナを返せ〜!』と玄関前でわめき散らすので3日と持たなかった。
母にとって私は可愛くも憎くも、自分の感情をぶつける事ができる、たったひとつの小さな人形だったのだろう。


そんな事で私の幼少期の記憶は終わっている。



大人になるにつれ、友達から小さい頃は家族でキャンプに行ったとか、そういう類いの話を聞いてひどく驚いた。そんなものはテレビドラマの中の話だろうと本当に信じていたのだから。



今の時代であれば間違いなくどこかの段階で誰かか通報し、児相送りになっていたんだろうと思う。



やれやれ…という幼少期であった。

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