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father&gaughter

「いってきます」
と大きな声を部屋中に響き渡らしてからドアを閉めて鍵をかける。
今は一週間で一番嫌いな月曜日の朝7時半だ。なぜこんなにも憂鬱になる日を作ったのかと神様に中指を立てたくなるけれど、1年で今日だけ何があっても笑顔でいると決めている。

私の名前は梨子。社会人3年目の25歳でみんなが知っているわけのない会社の企画部で毎日頭を抱えている。名前の漢字が変わっているからと小学生の時から「なし」というあだ名をつけられている。大学生になるまでずっと自分の名前が嫌いだったけど、大学生になって初めて好きになった人は今まで付き合った人とは違って、私の事を「りこちゃん」とまるで小学生を呼ぶような感じで名前を呼んでくれた。それがどこか心地よくて、人生で初めてほんの少しだけ自分の名前が好きになった。
宇宙ステーションから見た私の足元にいる蟻んこぐらいに。

駅から5分のところに住んでいる私はいつも余裕で最寄り駅のホームに向かう。
この路線のほぼ終点だから座れない日はない。
はずだったが、今日は駅の外から雰囲気が違う。いつもより少し人の多い最寄り駅の階段を上ると、夏の熱気と人の体温が混ざり合ったなんとも言えない温かさを帯びた風が、私の手入れ200点の顔を撫でる。そこで私は電車が止まっていることを悟った。
「なんで今日なん?ほんまに神様の胸ぐら掴んでどついたんねん」と舌打ち交じりにマスクの中で唱える。
動くはずのない電車を待つ人々の顔はみんな苦めの粉の薬を飲んでいるような顔をしている。
タクシーでも行けないことのない距離に会社があるから、一瞬その選択肢が頭をよぎったが、毎日朝から晩まで働いているのだから電車を理由に少しぐらいサボってもいいかと思った途端、顔の半分を隠しているマスクがに憎くなった。
大勢の人の流れとは反対向きに体を向けて、一歩。また一歩。踏み出す度に軽くなる足取りが楽しくてにやけながら家へと帰り、仕事用に着替えた服を脱ぎ、上司に仮病の電話を入れる。
日頃は無反応な上司がやけに優しく気遣ってくれた。たぶん奥さんに浮気がばれたのだ。営業の顔だけで生きてきたに違いない女との。

やっぱり1年でこの日だけは私の運は世界一だ。
けれど、会社を休んでまでやりたいことなんて無い私は、先週から徹夜続きで家に帰ってこないエンジニアの彼に
「今日の私は最強だから、会社は休んじゃった」と舌を出した絵文字とともにメッセージを送る。するとすぐに既読マークがついて「じゃあ今日はお昼には帰る。明日も休んだら?俺も休みだから」と、夏休みの遊ぶ約束をする少年のような返事が返ってきた。
私はきっと彼のこういう所が好きなんだと1人でにやけながら、「昼の12時30分を1秒でも過ぎたら、君の大切なものはこの世から消えるぞ。覚悟するのだぞ」と、悪の帝王のスタンプと一緒に返事を送る。
返ってきたスタンプは、何度も地球を救う戦士のスタンプ。
きっと彼は約束通りの時間に帰ってくる。そうわかると心臓の鼓動が少しだけ早くなった。そうこうしている内に睡魔が襲ってきたから、1時間のアラームをセットして大好きな人の匂いに包まれて眠りにつく。
毎日のマスク着用による肌荒れを隠すための化粧は落とさずに彼に見てほしい。なんてことを思っていると、風で写真立てが倒れた。
写真立てを手に、フレームに入った写真を見ると、2年前の夏の思い出す。まるで今年の夏のような時間を。

年が明けて、鏡割りをしたころから実家は忙しなかった。母は毎日朝から夜まで出かけ、私は社会人になる前の最後の自由時間を謳歌しようと毎日バイトと呑み会に精をだしていた。そんな私に弟は「自分だけ気楽やな。こんな時に」と毎日母が寝てから私に言ってくる。
分かっていた。大学1回生の弟がバイト代や学費免除で浮いた学費を全て家に入れていたことを。それでも私は毎日ほぼ家にいなかった。

そんなこんなで気づけば入社式から3か月ぐらいが経ったある日、家族は全身真っ黒の服を着て、言葉を発さずただ頭を下げていた。
私の人生で唯一のヒーローである父がこの世を去った。私が大学2回生の時からずっと病気と闘っていたヒーローは「ぜったい元気なるから大丈夫やで」と毎日笑顔で過ごしていた。それも長くは持たず、私が就職活動を始める頃には病院のベッドから起き上がることすらできず、母は毎日病院で付きっきりの看病をしていた。
そんなヒーローは大好きな海に行けずに旅だった。
歳は50歳と少しだ。
もっとしたいことも、見たい未来をあったはずなのに。
私が大っ嫌いな神様はヒーローの命を奪っていった。代わりに何かをくれる訳でもないのに。
いつだって私の味方でいてくれた人が、目の前から居なくなるかもしれないという事からずっと目を背けていた。そんな事が一気に押し寄せてくると人間は壊れてしまうのだと初めて知ったのも2年前だった。
就職活動という戦闘を勝ち抜き手にした大企業への入隊書を抱えて、私はずっと泣いていた。
父の仕事をずっと見ていたから興味を持った仕事。いつか一緒に何かをしたかった。

元気になると息巻いていたあの時の父の笑顔が、1週間経っても1ミリも薄くならないから私は無職になった。それでも母は何も言わず毎日ご飯を作ってくれた。
毎年家族で行った花見も、海開きの日に行った海水浴場も、2万発の花火も、キャンプにいったあの山も鮮明に私に襲い掛かる。そして、海は開かれず、花火もあがらず、美味しい匂いをまとったあの炭の煙も何もかもその年は無くなった。
まるで2020年、今年の上半期のように。
悲しいニュースが世界を覆った今年は、誰のせいなのか花見も海開きも花火もキャンプもない年になってしまっている。
人生で2回目のアンハッピーな上半期だったけれど、今回は笑顔で過ごせている。
2年前も私を支えてくれて、終わりがみえないと思っていた悲しみの毎日から、私が自然と笑える毎日にしてくれた私の新しいヒーローである彼との同棲が始まっていたからだ。
世間的に言えば少し変わっている私のニューヒーローは大好きなゲーム作りに携わりたいからと頑張って入った会社で今では最年少のチームリーダーになっている。
そんな彼は私の希望で、いつも一歩前を歩く目印なのかもしれない。
入社半年で大企業をやめるといった時も、今の会社に入るといった時も、一緒に住みたいと言った時も彼は一度も反対しなかった。同い年のくせに変な余裕と包容力のある彼はただ笑顔で「ええんちゃう」というだけだった。
そんな彼は私のことを「なっこ」と呼ぶ。梨の子だから「なっこ」らしい。どういうセンスがあればそう呼ぶのかは分からないけど、この世界で私のことを「なっこ」と呼ぶのはヒーロー2人だけだ。
大学生に入るまで嫌いだった自分の名前の由来は、私のヒーローが大好きだった果物の漢字をどうしても子供の名前に入れたいと母に土下座をした。
という事を父が亡くなった日に婆ちゃんから聞いて、私は自分の名前が大好きになった。
たぶん、父があのタイミングで旅立たなかったら私は自分の名前の由来を死ぬまで聞かずに、嫌いなまま生きていくところだった。
やっぱり私のヒーローは変わっている。

彼のええんちゃうという声、なっこと呼ぶ声、笑った顔、いつも無理に合わそうとしてくれる歩幅、好きなことをしている時の無邪気な顔は父にそっくりだ。
高校3年生の春に「なっこ」と呼ばれたあの日から私の世界は2人のヒーローでいっぱいだ。
たぶん今日彼は小さな箱と一緒に帰ってくる。そして父の目の前で私に言うだろう
「一緒に僕らの世界を守りませんか」って。
バレバレなプランも、汗ばんだ手も、終わった後の満足げな顔も予想ができる。
きっと私はこう言う。
「もうちょっとうまいこと出来ひんかったん?」って。
嬉しいくせにうまく言えない私の癖だけど、彼は笑って
「やっぱりそう言うよな。今日もなっこらしくて安心した。わざとやで。俺の大切な嫁さん」
と悪だくみをしている少年のように。
「勝手に返事きめんといて。yesとはいってないし」と赤くした目と鼻から水分を大量に出しながら私はいうだろう。
ヒーローはやっぱり強いんだ。私は一生勝てない。

たぶん定期的に怒ってしまうし、口をきかなくなるけど彼はいつも世界を救うアイアンマンのように全力で私を笑かしてくるだろう。いままでみたいに。
そして私も許してしまうだろう。いままでみたいに。
そんな毎日を母と父も過ごしていたのだと思うと、父に会いたくなった。

「お父さん。今日たぶん私彼の奥さんになるよ。結婚式では誰よりも泣いて、私の子供にデレデレのおじいちゃんになってくれる思ってたよ。見ててよ。お父さんとお母さんみたいに幸せになるから。そして私みたいに楽しくて、楽しくて思い出が溢れるこの世界で一番幸せな子供を育てるから。ずっと一緒にいてね。お父さん大好きだよ」

彼が帰ってくるまであと4時間。
それまでゆっくり父と話そう。これまであった話もこれからの希望も。
そして、彼の夢枕にでも立ってもらおうかな。
きっと彼は気づかないけど。
そんな鈍感なところも私にとって大事だ。
いつまで恋し続けないといけないのだろうか。
楽しみだ。

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