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文学はどこから始まるのか

最近出会った映画、小説を読んでて思ったこと。ひとつの小説の主人公は、皆んなと食事をするのが嫌いだと言う。「皆んなが美味しい美味しいって言ってご飯食べていても、誰もが同じ好みを持ってるわけじゃないし味覚だって人それぞれ違う。だから、おいしいご飯を皆で食べることはできない」と。

そっかー。俺自身は、皆んなとご飯食べるのが大好きだ。むしろそれが人生の喜びだと思ってるくらい好きだ。部活終わって、皆んなとダベりながら行く飯も大好きだし、ゼミ終わって皆んなであーだこーだ言いながら食べる飯も好き。先輩にパワハラ寸前に飲まされる飲み会もなんだかんだ好きだし、同期と行く飲み会も大好き。

だから、この小説を読んだ時は後味は悪かった。知りたくない世界を知った感じ。今日観た映画の主人公は、ファミレスが嫌いだと言う。理由は美味しそうなメニューがあり過ぎて選べないでいっつも周りに迷惑かけるから。

マジか。そんな世界線あるのか。ファミレスって気軽に行ける代名詞みたいなところやんか。映画の中で阿部寛がメニュー片手に悩んでいる。その姿を観ながら、でも一方で、そういうところ俺もあるやんって思う。人に言われたら何やそれってバカにされそうな悩み。小さーくて、しょうもない悩み。

誰かとってはそれがファミレスで、誰かにとってはそれが大人数での食事なのかもしれない。そういう、うじうじしちゃう所、小さい悩み、そういうのって人間らしくない?って思う。人間ってそんな完璧じゃないでしょ?って思う。そこに文学があるんじゃない?って思う。

ある人は、文学とは弱者の肯定であると言った。そーやん。文学くらい、そういう部分に寄り添ってあげなくてどうすんの?って思う。あんま、内面見つめて、うじうじ系の文学って好きじゃなかったけど、最近ちょっと見直してる。文学に気づかされる。文学勉強してるなら、ちょっぴりでも、そういう人間の弱い部分に寄り添える人になりたいなって思う。気づける人でありたいなって思う。

もちろん、安易に「俺はそういう人たちの気持ちが分かる!」と言いたくもない。きっとそれは、俺がそういう風に理解したいからしてるということがきっと多い。

でも、そういう世界もあるって、知ってると知らないとでは、ぜんぜん違うと思う。ってか、俺はせめて知ることしかできない。


せめて、知るのだ。
知らないよりは、知るのだ。


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