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『映画を早送りで観る人たち』を読んで思ったあれやこれや

「倍速視聴」なる言葉を知ったのはいつだったか。
 Z世代以降はとくに抵抗なく「倍速視聴」「10秒飛ばし」「ネタバレサイト漁り」をしているというのはなんとなく聞いたことがあったが、体感では30代でも普通にいる。
 意識高い系ビジネスマンだととくに、倍速視聴を(Audibleなど)とりわけ、ビジネス系やライフハック系メディアを視聴するときに活用しているイメージだ。(もうこの時点でエンデの『モモ』に出てくる時間泥棒に取り憑かれた人たちが浮かんで仕方ないのだが)

 かつての友人のなかにも、倍速視聴勢は一定数いたし、本書に出てくるような、「映画を観る前にネタバレサイトをチェックする」とまではいかなくても、映画を観たあとに、答え合わせをするようにして即座にネタバレサイトをチェックしている人もいた。(そもそも映画の模範解答、のようなものを漁る時点で、(そしてそういう伏線回収系の脚本が需要のニーズに答えるように量産されているのも違和感大アリだが))映画を観賞する意味とは何かを改めて考えさせられる。

 「倍速視聴」が近年もはや無視できないほど席感していると思うのは、映像コンテンツにしろテキストベースにしろ、「要約」「わかりやすく」「◯時間で覚える」など、「時間がない人」「忙しい人」をターゲットとしたコンテンツが無視できないほど視界に入ってくると感じるようになったからだ。

「今どきの若者は……」がやりたくてこのテキストを書いているわけではない。現に世代問わず、これが習慣化している人間は総じて危険(自身を危険に晒すという意味で)だと思うからだ。
 この風潮のまずさは、単に「メディアコンテンツの視聴態度」だけにとどまらないと危惧している。

「時代の流れ」で結論付けてしまっていいのか

 本書の筆者は、長期の取材や調査をしていくなかで、「理解できない」→「やっぱり理解に苦しむ」→「まあ、そういう事情があるなら致し方ないものかもな…(Z世代への理解を示す)」→「そもそも、VHSが出たときもそれはもはや映画とはいえない勢がいたなあ…」→「これはある意味時代の流れであり必然みたいです」という結論にたどり着いたあとがきの最後の最後で、「それにしても、私には理解できない」と結んでいる。

金を十分に与えないくせに「消費者」に押し込めようとする社会

 本書で述べられている倍速視聴の主な原因は、「①映像作品の供給過多、②現代人の多忙に端を発するコスパ(タイパ)志向、③セリフですべてを説明する映像作品が増えたこと」だと考察している。

 なぜ忙しいのか。それは圧倒的に「金がない」からではないか、「金がない」となると必要になってくるのは多くの人にとっては「労働」である。そしてその「労働」を得るためには、「時間と労力という対価」を差し出す必要がある。それで得られるのはなけなしの賃金。だからたくさん働く、たくさん働いても金が足りない、だからもっと働く。となると残った余暇は貴重だし、資本金も潤沢にあるわけではない。だからベットする以上はローリスクハイリターン(コスパ、タイパがいい)でなければならない、という思考になるのは当然であり、世代など関係ないだろう。

時間とお金があれば、もっとみんな色んな「豊かさ」を享受できたのでは?と考えたり

 うん、政治が悪い。世の中に金が回らないから、経済だけでなく、文化芸術・食事・治安・考えることのゆとり・経験・人生その他あらゆるものへ弊害を来たし、尽く破壊している。

 毎朝毎晩通勤電車で駅のホームで、一人で食事をしている最中であれ、スマホにかじりついている人々の群れ。もちろん私もその一員になるときも多々ある。だが、ふとスマホの画面から目を上げると、その異様な光景の一部でいることの恐さは、感じる。

その切迫感は存外、「時間とお金」の制約から解放されたら軽くなるものなのかも?という発想を推奨してみる

 私は現在、諸事情により実家暮らし&週四勤務というクソ贅沢な時間を過ごしている。
 その体験から思うのだが、実家暮らしはさておき、週四勤務って、やべえぞ。(非難轟々)
 圧倒的に考える時間が増えた。土日だけでは考えられなかったことにまで思索の触手を伸ばすこともできていると感じるし、(一日余暇が生まれるだけで、社会の気になることについて考えたり調べたりする時間は週5勤務のときより増えたと思う。それはやはり金と時間に余裕があるからできることだ)なにより生きている実感がある。

「いいよな、親がいて、金の心配もなく、好きなように働いて、遊べる環境にいるのは」と皮肉られてもその通りで、なにも「だから私を真似すればいいのに」なんて、庶民感覚のないどこぞの政治家が言いそうなことを提言するつもりは毛頭ない。
 それに私はひとり親(遺産はほぼあてにできない)であり、親戚もほぼいない上、姉はひきニートだし、母を失えば、一ヶ月後には金の工面に困り果て、人生が転落する可能性だってある、わりと崖っぷち人間なのだ。だから金銭面に於ける生活の豊かさを享受できるのは、いまをピークにあとは下降線をたどるだけだからこそ、こんな働き方(余暇の使い方)をしているとも言える。

 話が横道にそれた。私が何を言いたいかというと、ただ、そういう生き方が存在しているということを知っておいてほしい、ということである。環境が絶対に許さないとしても、そういう生存戦略もあるのだ、ということを頭の片隅にでも置いておくことで、窮地に陥ったときに、(独り身に限るのかもしれないが…)「時間やお金に追われすぎているかもしれない」と、いまの切羽詰まった思考は時間的、金銭的ゆとりの無さから生じたものであると考えてみることを推奨したいと考えるものである。

それは果たして、「生きている」のか?

 私の友人にも、週五八時間+残業労働することに耐えかねて、正社員をやめてバイト掛け持ちで一人暮らしをしている人がいる。(現在31歳)
 決して裕福とはいえないが、彼女は「人生が楽しくなった」と言う。

 私が言いたいのはそういうことだ。「老後のことをなにも考えてない」と言われるかもしれない。たしかに、「老後」に関しては考えが甘いのかもしれない。だが、「老後」に怯え、その資金を貯めるために「いま」を蔑ろにして生きて、「はい、老後になりました」で慎ましく暮らします。それであなたの人生は満足なのだろうか、悔いは残らないのだろうか。残らない。というのならそれは素晴らしい、私には真似の出来ない人生を送れているので祝福します。さようなら。

 満足とはいえそうにない、悔いが残るかも、と思う人は、いま、ここからできることをやっていこう。(インスタントな享楽に耽ることを薦めているわけではないよ?)

考えること=生きること

 なによりも人生に大切なのは、「自分の頭で考えること」だと思う。それはたとえば、「いま、あの人の背広に、空中を舞っていた羽毛が、静電気で吸い寄せられるようにしてくっついた瞬間を見た」みたいなことでいいのである。
 これが私の考える「生きる」ことの実践であり、「考えること」の原点であると思っている。私とてまだまだ未熟だ。いや、いつまで経っても未熟なまま人生を終えるかもしれない。それでも、「自分の頭で考える(ときに行動する)」ことをやったということは、密かな誇りとして、誰に共有されなくとも、私のなかに豊かな気持ちをもたらしてくれるかもしれない。

「時間の無駄」

「自分が生きていると思える時間」を取り戻そうよ、そっちのほうがタイパ・コスパよりももっと味のする「無駄」な贅沢が味わえますよ、ということが言ってみたかった。

 とにもかくにも。「コスパ・タイパ」にみんな疲れてる気がしたので、こういう駄文を書いてみた。

 参考になるかは知らん。「時間の無駄だった」と思ってくれたなら、本望である。

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