小説『天使さまと呼ばないで』 第49話
「・・・これ、落としましたよ」
声に驚いたミカが振り向くと、そこに立っていたのはショートヘアーの女性だった。
ミカは最初、知らない女性かと思ったが、よく顔を見るとそれはユウコだった。
以前はセミロングだった髪をバッサリ切っていたので、ユウコだと気がつかなかったのだ。
ユウコは、ミカが以前不妊についての悩みをカウンセリングしたクライアントで、一度は子供を授かったものの流産し、ミカの贅沢自慢や急な値上げに批判的な意見を言ったことで他のファンから叩かれ、2年前にミカの元を去った女性だ。
ユウコはミカに、500円玉を差し出して言った。
「さっき財布を取り出したときに、落とされましたよ」
「えっ・・・あ、そうでしたか、すみません」
ミカは咄嗟にそう言って、500円玉を受け取り、会計のトレーに置く。
ユウコはにっこり笑ってから、元いた席に戻って行った。
会計を済ませ、カウンターで注文したものを待ちながら、ミカは先程のことを考えていた。
小銭を落とした覚えなどない。恐らく今のは、ユウコが自分に恥をかかせまいとついてくれた嘘だろう。
店員からトレーを受け取ったミカは、ユウコの座る席へ向かった。
ドキドキする。ユウコは自分を恨んでいてもおかしくない女性だ。さっきは優しそうに見えたけど、本当は何か打算があるのかもしれない。何か嫌味でも言われたらどうしよう。
・・・そう怖気付きながらも、意を決して礼を言うことにした。
「あ、あの・・・さっきはありがとうございます。
落としたって、私のためについた嘘ですよね。ごめんなさい、今度必ず返します」
「いいですよ、500円ぐらい」
そう言ってユウコは笑った。
"500円ぐらい"と言われると、余計に惨めな気持ちが増す。ミカはその500円すら払えないほど困窮しているのに。
ユウコは向かいの椅子を指差しながら言った。
「ミカさん、一人ですか?よかったらここに座りませんか?」
そう言われてミカは驚いたが、500円玉をもらった以上、断る権利はないような気がした。
ミカはおずおずとテーブルにトレーを置き、ユウコの向かいに座った。
ユウコはただ、黙っている。
ミカはおずおずとストロベリー・ホワイトモカを一口飲み、それからスコーンを頬張った。
頭の中にいろんな考えが浮かんでくる。
ユウコは、あのTvitterでの炎上騒動のことを知ってるのだろうか。もしかすると私の落ちぶれた姿を見て、笑いたかったのではないだろうか。こうしてここに座らせたのも、馬鹿にするためではないだろうか。
ネガティブなことばかりが頭に浮かんでしまう。
すると、とうとうユウコが口を開いた。
「・・・なんだか、大変な目に遭われたようですね」
ミカはギクリとした。ユウコも炎上騒動のことをやはり知ってたのか。
ミカは強張った表情のままで、答えた。
「はい・・・」
「ミカさん、もうカウンセリングの仕事、されてないんですか?」
「・・・ええ、まだ決めてないんですけど、しばらくはお休みしようかと」
ユウコはしばらく黙っていた。
沈黙をごまかしたくて、ミカはスコーンをまた一口食べた。
ユウコが口を開く。
「さっきは、急に相席を提案したりしてごめんなさい。びっくりしましたよね。
・・・ミカさん、私ずっと、言いたいことがあったんです」
何だろう。『詐欺師』だとか『金返せ』だとか、罵倒されるのだろうか。或いはネットで炎上したことを『自業自得だ』と馬鹿にされるのだろうか。
身体中が強張る。ミカはビクビクしながら固まっていた。
しかし、ユウコの口から出た言葉は、ミカが予想したどれとも違う、意外なものだった。
「ミカさん・・・ごめんなさい」
「へっ!?」
想定外の言葉に驚き、思わず間抜けな声を出してしまった。
ユウコに、一体何を謝る必要があるのだろう。むしろ謝るべきなのはミカのはずだ。
一瞬、『白犬ノライヌ』の正体がユウコなのかとも思ったが、見た感じそうとは信じられなかった。
「どうしたんですか、ユウコさん、謝る必要なんて全然ないですよ。むしろ私の方が・・・」
「実は私、ミカさんのこと、利用してたんです」
「え???」
意味がわからない。
適当な理論を言い、ユウコからお金を巻き上げて"利用した"のはミカの方だ。
ミカはユウコが何か大きな勘違いでもしてるのかと思った。
「・・・実は私、ミカさんにカウンセリングしてもらうずっと前から、子供ができづらい身体だって、お医者さまに言われていたんです。運良く妊娠できたとしても、出産までできる可能性は低いって。
だから、本当は、自分が子供を望めないこと、わかってたんです」
あまりに急な告白に、ミカはどう反応していいかわからなかった。
「・・・でも心のどこかで、自分がなんとかすれば、頑張れば、子供を授かれるんじゃないかって、そう思ってました。
そうして、子供が産まれさえすれば幸せになれるって、そう信じてました」
ユウコは続ける。
「だから、ミカさんに『感謝すれば子供が授かれる』って言われた時、本当に嬉しかったんです。
『あなたは不幸な人間じゃない』『あなたの人生は終わってない』って、認めてもらえたような気がしました。
・・・だから私、ミカさんのこと、利用してたんです。
自分が不幸じゃないって、安心するために。
そしてそう安心させてくれるなら、多分、誰でも良かったんです」
俯きながらユウコは言った。ミカはただ、黙っていた。
しばらく沈黙が流れる。でもこの沈黙はどこか優しく、温かい空気が流れている気がした。
「・・・自分の話になっちゃうんですけど、私は4人兄弟の末っ子だったんです。上3人は兄で」
ユウコはそう切り出した。
「私の母は、いつも私に『子供を育てる自分がいかに立派で素晴らしいか』を語ってました。
私以外は男ばかりで、みんな歳も近くてやんちゃだったから、母は大変だったと思います。
いつも、服もテキトーで、化粧もせずに髪の毛を振り乱しながら兄を追いかけ回していて、娘の私から見ても全然魅力なんて感じられない、そんな母親でした。
いつも私に『お母さんがこんなにボロボロなのは子育てしてるからよ。でもお母さんは子供がいるから幸せなのよ』とか、『仕事をしてる女性よりもお母さんの方がずっと偉い』とか、『アンタは産んでもらったことに感謝しなさい』とか、そんなことを言っていました。
私はそんな母が嫌で仕方がなかった。
そんなに子供に恩を着せるぐらいなら、他の人を見下すぐらいなら、私なんて産まなくて良かったのに・・ってずっと思ってました。綺麗なママがいる一人っ子の友達が羨ましかった」
ユウコは俯いたまま続けた。
ミカはどう答えればいいかわからず、ゆっくり頷くだけだった。
「今思うと、母も母なりに苦しんでいたのだと思います。父は育児に非協力的でしたし、ずっと家に閉じ込められた状況で、自分の頑張りを誰かに認めて欲しくて仕方がなかったのだと思います。
でも、大人になって、結婚して、私はいつの間にか母と同じように考えるようになっていました。
・・というより、母の言葉が呪いのように私の頭をしがみついて離れなかったんです。
女は子供を産まなければいけない。子供がいないと幸せではない。子供を産まないと感謝されない。
そんな言葉が頭に響いて仕方がありませんでした。
だから、自分が子供ができづらい身体だって知った時は本当にショックで。
自分という人間の全てを、自分の人生を、否定された気がしたんです。
そして、子供ができない限り、自分は一生幸せの範疇から外れてしまうように思いました」
その気持ちがミカには痛いほどわかった。
ミカは思わず答えた。
「・・・私もです、ユウコさん、私もなんです」
目からは自然と涙が溢れた。
「私も、みんなの前では強がって、『あえてまだ子供は作ってない』って言いましたけど、本当は子供が欲しくて仕方なかったんです。でも、夫はそんな気持ちを理解してくれなくて、子作りにも全然協力的じゃなくて、そんな自分が惨めで仕方がなかった。
子供のいない人生が不安で仕方がなかった。"幸福"という範疇から外れることが怖かった。自分は幸福という範疇の中で生きてる人間だって、自分の人生は大丈夫だって、そう信じたかった。
だから、みんなの前で『本当は欲しいけどできない』って言えなかったんです。そう言ってしまうと、自分が不幸な人間だと思われる気がして。お客さんが離れてしまうことが怖くて」
涙がどんどん溢れ出す。ミカは続けた。止まらなかった。
「本当は、ユウコさんの悩みを聞いたとき、私、同志を見つけられたような気がして嬉しかったんです。
辛いよね、でも大丈夫よ、って励まし合いたかった。手を取って苦しみを分かち合いたかった。
でも、できませんでした。そう言ってしまうと、私に何の力もないと思われてしまうのが怖くて。人生を思い通りにすることもできない、ただの人間だとバレてしまうのが怖くて」
そう言って、ミカはただ俯いた。
「そうだったんですか・・・そんなふうに、お辛い思いをさせてしまって、すみませんでした」
「いえ、私が悪いんです。私が勝手に、見栄を張っていただけですから」
しばらく沈黙が流れる。外はよく晴れていて、ミカたちが座るテラスに近い席にはあたたかい日差しが差し込んでいる。
「その気持ち、わかります・・・私も周りの友達には、子供が欲しいこと隠してて」
そう言ったかと思うと、急にユウコの口が止まった。何か話すのに躊躇しているように見える。しかし諦めたように少しため息をついてから、また口を動かし始めた。
「実は去年、友人が病院に運ばれたんです」
いきなりの話題にミカは驚いたが、ただ黙って聞いていた。
「その友人は、2人の子供に恵まれて、旦那さんも大企業に勤めてて、綺麗な戸建てに住んでいて、とても幸せそうな子だったんですけど・・・自殺未遂をして。育児ノイローゼでした」
「・・・」
「私、その友人のこといつも羨ましくて。私にないものをいっぱい持ってるから。きっと毎日が幸せで、悲しみを感じることなんてなくて、私のことなんて見下してるんだろうって、そう思ってました。・・・すごく卑屈ですよね」
ミカは首を振る。頭にはナミの顔が浮かんでいた。
「その友人からは、以前『ユウコは自由で羨ましい』『毎日しんどい』って言われたことがあって・・・でも、それは友人なりの冗談だと思ってました。本当は自分のほうが上だと思ってるけど、あえて自虐することで謙虚を装うことって、あるじゃないですか」
ユウコの意外な言葉にミカは驚いた。優しくておっとりしたユウコが、自分のように人を見下したり羨んだりする人間だとは思いもしなかったからだ。
「だから私、全然真面目に取り合ってなかったんです。
そうは言っても、私よりはマシでしょ。私よりは幸せでしょって、そう思ってました。そして友人のこと、どこか冷めた目で見てた」
ユウコの目から涙が溢れた。
「・・・だから自殺未遂の話を聞いたとき、本当にびっくりしました。そして、後悔しました。
何でちゃんと話を聞いてあげられなかったんだろうって」
ユウコはカバンからハンカチを取り出し、目を押さえた。
ミカは何と言っていいか分からず、ただ慰めることにした。
「・・・でも、ご友人が未遂で済んでよかったです」
「ええ、それは本当に・・・ワンオペ育児がノイローゼの原因だったらしいんですけど、今は周りのサポートもあって、元気になってくれて」
ユウコの顔に笑顔が戻った。
ミカはホッとした。赤の他人であっても、誰かが亡くなる話は辛い。それが小さい子の親となれば尚更だ。
「でも、友人の件があってから、気づいたんです・・・私は、幸せを"切符"みたいなものだと思ってました。
【正社員である】【お金がある】【結婚してる】【子供がいる】【持ち家がある】・・・そうした切符をたくさん持ってる人ほど、きっと"幸福"という名の遊園地のような場所に、早く辿り着けるレールに乗れるような気がしていたんです。
だから夫と結婚できたとき、すごく嬉しかったんです。自分がちゃんと切符を得られたことが。そしてその切符で、ちゃんと"幸福"に続くレールに乗れたことが。
これで自分は不幸の烙印を押されない人間になれたって、そう安心しました。今思えば、誰にその烙印を押されると思ってたのか、わからないんですけど」
そう言ってユウコは少し自嘲するように笑った。ミカはただ、ゆっくりと頷いた。
「でも、【結婚してる】ということに慣れて当たり前になってくると、私はまた怖くなりました。
結婚した時はあれだけ、自分が幸福に続くレールに乗れたことに安心していたはずなのに、今度は子供のいない自分が、不幸に続くレールに乗っている気がしてきたんです。
頭にはいつも、母の声が聞こえるようになりました。
『お母さんは子育てしてるから幸せなのよ』っていう、あの声が。
【子供がいる】という切符を手に入れない限り、新しいレールに乗らない限り、何かとても危険で暗い未来に進んでいく気がしたんです」
その感覚がミカには非常によくわかった。
ユウコは続けた。
「・・・多分、もし私に子供ができたとしても、私はまた新しい、自分が持っていない切符を見つけて、それを持ってない自分が不幸へ突き進んでいると感じるようになってたと思います。
【子供の頭が良い】とか【持ち家に住んでる】とか、そういう切符を」
ミカはゆっくり頷いた。
「でも、幸福って、たぶんそういうものじゃないんです。どれだけ切符を手に入れたとしても、どんなレールを進んだとしても、それ自体は幸福には関係ないんです。
だって、どれだけ切符を持っていようが、どんなレールに乗っていようが、辿り着く先は遊園地なんかじゃなくて、"死"だけなんですもの」
急に"死"という鮮烈な言葉が出てきたことにミカは少しドキリとした。でも、ユウコの表情は相変わらず穏やかで柔らかい。
「私、幸福って、レールの先に存在する世界じゃなくて、レールに乗っている間に見える景色を楽しむこと、それ自体を幸福と呼ぶんじゃないかなって、最近そう思うようになったんです。
自分の進んでいるレールでは、見えると思ってたものが見えないかもしれない。本当は海が見たかったのに、自分の乗っているレールだと山しか見えないかもしれない。
でも、自分が今見ている景色は、自分にしか見ることのない、特別なものなんです。
それでもどうしても海が見たいなら、どうすれば見えるようになるかなって考えて、試行錯誤しながら座る位置を変えたり、或いは列車を乗り換えたりしてみる。そうしたら、もしかすると見えるかもしれない。
もし、どうやっても海が見えない時は、今の景色に目を凝らしてみるんです。そうすれば、草木の美しさを感じるようになるかもしれない。やっぱり山が見れて良かったなって思えるようになるかもしれない。
どうしても山の景色を好きになれなくて、でも海が見える列車には乗ることができないなら、湖が見えるレールや、街が見えるレールに変えてみる。そうしているうちに、自分の心地よい生き方を見つけるようになるんじゃないかなって・・・
そうした全てを、幸福と呼ぶんじゃないかなって、そう思うんです」
ミカの胸が熱くなった。
「ミカさんの元から離れて、友人の件があった後、私はあらためて自分の周りの景色をよく見てみたんです。
そうして、今まで想像上の子供のことばかり考えて、目の前にいる夫のことをずっと見てなかったことに気が付きました。
私の夫は、私のことをとても大切にしてくれていたんです。子供ができなくてもいいから、私のそばにいたいと言ってくれました。
そんな素晴らしい夫がそばにいるのに、『子供がいなければ幸せにはなれない』という思い込みにばかり気を取られて、そのことを、今の景色を、私はすっかり見ていませんでした。
今も、子供が欲しいという気持ちが完全に消えたわけではありません・・・でも、子供ができなくても、いないことで見える景色を楽しもうって、自分にしか見えない景色を味わおうって、そう思ってます」
ユウコはさっぱりとした笑顔で言った。
「・・・ミカさんに出会えたことは、本当に感謝してるんです。最後は少し残念なことになってしまいましたけれど、でもあれから自分のことを見つめ直したことで、このことに気がつけましたから。
それから、いただいたハンカチは本当に気に入っていて、今も使ってるんですよ。ほら」
そう言って、ユウコは先ほど涙を拭いたハンカチをミカに見せた。それは、ミカが刺繍を入れたあのハンカチだった。
ミカは泣きながら微笑み、言った。
「ユウコさん・・・私もっと、早くユウコさんに会いたかった。
そして、友達になりたかった」
ユウコも微笑む。
「私もです。ミカさんも私と同じことで悩んでたなんて、知りませんでした。でも・・・」
そう言って、ユウコは続けた。
「もし最初から妊活友達として仲良くなってたら、多分いまだに私は子供ができないことに執着して、ミカさんに愚痴ばかり言って、自分の人生を悲観していたような気もするんです。そしてミカさんも私につられて、同じように人生を悲観していたかもしれません。
そう思うと、こんな形でミカさんと出会えたのも、ありがたいことなんじゃないかなって思います」
ユウコはしみじみとした表情で言ったあと、ミカのトレーを見て、ハッとした顔をした。
「ごめんなさい!全然食べられてないですよね、喋りすぎてしまって・・・すみません」
「いえ、いいんですいいんです」
そう言って、ミカはストロベリー・ホワイトモカを一口飲んだ。
もうすっかり冷めているはずなのに、お腹の底から温まっていくように感じた。
ミカは改めて、ユウコに礼を述べた。
「今日はユウコさんに会えて良かったです。本当に、ありがとうございます。そして、あの時は本当に、ごめんなさい」
軽食を済ませ、ユウコに挨拶をしてから、ミカは先に店を出た。
日差しは暖かく、鼻いっぱいに吸い込んだ空気は少しひんやりとしていたけども、澄みきっているように感じた。
ミカは歩きながら、先程のユウコの言葉を思い出していた。
頭にはコウタの姿が浮かんでいた。
「コウタ・・・どうしてるかな・・・」
そう小さく呟くと、ため息が白く浮かんですぐ空に消えていった。
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第50話につづく
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