見出し画像

オレンジの猫、緑色の信号

オレンジ色の猫に初めて出会ったのは、小学校のころだ。

それは、当時大好きだったアガサクリスティの小説の一節。
そして、同じころ、当時読んでいたLalaという月刊誌に「みかん・絵日記」というマンガが連載されていた。

「猫の名前、みかんがいいよ。そう、みかん。オレンジ色だから。」
「これオレンジ色か?普通の赤茶じゃないか?」
「見ようによってはオレンジに見えなくもないけど」

「みかん・絵日記」第一話 安孫子三和

猫の色をオレンジ色ということの新鮮さ。
少なくとも、その頃の日本語の感覚では、それは奇異に響くことだった。

大学時代、鈴木孝夫先生の本と出会ったのはほんの偶然だったような気がする。
「ことばと文化」というタイトルに惹かれ、手に取った本の冒頭をパラパラ通読した時だった。

自分が日本文化を背景に気づかないうちに持っていた「米は食事を通して食べ続けるもの」という先入観を、「コースの最初の料理として食べるもの」とする文化と対比させた序章に、ガツンと衝撃を受けた。

自分が、高校時代のホームステイで感じた「外国のことばを尽くしたとしても埋まらないギャップ」が系統立てて解明されている気がしたからだ。

自然と背負ってきた「ものの見方」や「感受性」のギャップは、逐語的に完全に翻訳できたとしても、理解されないまま埋まらないことがある。

それは、たとえば、私たちにとって、米飯はおかずと共にずっと食卓にあるものなのに対し、西欧文化ではリゾットやパンはメインが出る前に食べ終わるべきものであること。
あるいは、餃子が私たちにとって米飯と食べるおかずなのに対し、中国人にとってはそれそのものが米に代わるものであること。

いくら「そういうものだ」と理解していて、やっぱりパンを片付けられるとええっと思ってしまうし、餃子にはご飯が食べたくなる。

そして、さらに「日本語と外国語」を読んだとき、かつての「オレンジ色の猫」と再会することになる。

日本人が思う「オレンジ色」と、英語圏の文化における「Orange」が指すものの違い。
私たちが無意識のうちに「茶色」に分類する色が、英語文化にとっては「Orange」に含まれること。ゆえに、オレンジ色の猫はごくあたりまえの表現なのだと。

Googleで「Orange Cat」と打てば普通に「茶色の猫」の写真がでてくる

大学院時代、いつも、授業の後はクラスメイトのロッドと図書館で一緒にレポートを書いていた。
お腹がすくと、彼の赤いピックアップトラックに乗って、近所のベトナム料理屋やピザ屋に夜食を食べにいった。

「あ、ほらほら、信号青になったよ」

私が、それを文字通りいうと、ロッドは必ずニヤリとして言葉尻を捉えたものだ。

「おいおい、大丈夫か。どう見たってあれはgreen light(緑信号)だぞ」

知識として、漢文の影響を受けた日本語の「青」が緑を表現することはわかっている。「青々とした新緑」などと一見矛盾したような表現をすることも。そして英語では、その色のまま緑信号ということも。

でも、助手席に座っていて、目の前で信号が変わると、とっさに口についてでてくるのは「青信号」を直訳した「blue」なのだ。

どう見たって、色自体は「緑」

英語では「green light」は、「ゴーサイン」の意味でも使われる。
ようやく予算承認が下りたから、プロジェクトを始められるよ、といった感じだ。
面白いことに、そうやって慣用句的に使うとき、私が「緑」か「青」かを戸惑ったり間違ったりすることはない。

ただ、文字通り信号が目の前にあると、これだけ英語を話す国に住んだあとであっても、思わず「ブ」の音がでそうになって、慌てて「グ」に切り替える。

見えているものは同じ色なのに、それを脳の電子回路に伝えて「ことば」として表現するときの対比表が異なる。
それは、育ってくる中で自然に身に着けたものだから、他の対比表をインストールしたあとも、ついついひょこっと生来のものが顔をだす。

それが、鈴木孝夫先生がいう「ことばというのは文化の発露」なのだと思う。
そして、自分が日本語と外国語のあいだで暮らしていると、これら鈴木先生によって50年も前に書かれた書籍たちが、いまでもしっかり自分と沿うものであることに驚かされる。

ざあざあ雨の日曜日。
猫がめずらしく膝に乗ってくれるので、そろそろパソコンは閉じて。
鈴木先生の新書を久しぶりに読もう。



いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。