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えいごとにほんご

私はいまロンドンに住んでいる。

今の仕事で日本語を使うことはまったくない。日本人であることも関係ない。

なので、大学は文学部国文学科でしたというと、たいてい驚かれる。

小学校の時、アルセーヌ・ルパンが大好きだった。
ワルサーP38を撃ち、不二子ちゃ~んと叫ぶ三世ではない。
元祖のおじいちゃんのほうだ。

図書室にあるポプラ社の「怪盗ルパン全集」にハマり、夢中になって読み漁った。
すべて読み終わったあと、その脇に並んでいた「名探偵ホームズ」に手をつた。
けれど、ルパンの色気あるストーリーと人物描写に比べ、まったく退屈で知識をひけらかす嫌味な探偵が主人公だったので、がっかりして江戸川乱歩の「少年探偵もの」に移った。
乱歩の耽美な世界を通り抜け、とうとうポプラ社シリーズで読むものがなくなったとき。先生に勧められたのが、アガサ・クリスティだった。

それはハヤカワ文庫の、おそらく田村隆一先生訳の一冊じゃなかったかと思うのだけれど、ポワロもの作品の中に「オレンジ色の猫」という表現があった。

どうにも引っかかる。

オレンジ?ネコが?
オレンジって、あの、おこたに入って食べるおみかんのことでしょ?そんな鮮やかな色のネコがイギリスにはいるのかなあ。

あちらこちらに散らばっている「日本語らしくない」表現に気が散ってしまい、ミステリそのものに集中できなかった。
これ、私が訳してあげたほうがいいんじゃない?そう思い上がった12歳。

小学校の卒業文集の将来の夢には「翻訳家」と書いた。

同じ頃、「エイリアン通り」という漫画に恋をしていた。
アメリカのロサンゼルスで大学生活を送る若者たちの物語。私も大きくなったら、アメリカに行くんだ、こうやってキャンパスライフをおくるんだと幻想を思い描いた。
アラブの、フランスの、日本の、いろんなしがらみから抜け出して、アメリカという自由な国で自分の求めていた道をたどる登場人物たち。
それは何よりも魅力的に思えた。

そんな未来のためには英語が必須だ。だから、中学の進路相談で「英語が話せるようになりたいから大学は英文科に進みたい」といった。
担任の先生は、そうかそうかとうなずきつつ、最後にグサリと刺さる一言を返した。

「英語を話したいんだったら、英会話学校でいいんですよ。だってね、英文科というのは英文学を研究するところなんです。そこに進学するのはシェイクスピアとかワーズワースを研究したいと思うひとたちです。それに興味がないのなら、まず英語を使って自分が何をしたいのかを考えた方がいいと思いますよ」

中学3年生だった自分が初めて「言語」というものを意識した瞬間だった。
そうか、言語は道具であって目的にするものではないのだ。「それで何を語るのか」の中身がなかったらまったく意味はない。

でも、私は、何を語りたいのだろう。

進学した高校には交換留学制度があった。オーストラリアなどから留学生を受け入れていたし、こちらからオーストラリアやアメリカに1年間留学し、一つ下の学年に編入してくる生徒もたくさんいた。

私も行きたい。
高校2年生になってそう親に切り出したが、父は「そんなもの必要ない。海外なんて旅行で十分なはずだ」とバッサリ切り捨てた。
2年生でのチャンスを逃した私は、アルバイトで費用を貯め、3年の夏、これが最後だと思い短期プログラムに申し込んだ。
保護者同意欄は(今だからいうが)父の事務机から三文判を拝借した。

スペイン、ハンガリー、モロッコ、ベネズエラ、ドミニカ、トルコ…。その夏、ミネソタ州で出会った留学生たちの出身国は実にさまざまだった。
憧れの国アメリカ、に行きたい一念でやってきたけれど、英語を話すと、アメリカ人だけじゃなく、英語じゃないことばを話す国の学生たちとも、やり取りができることを知ってさらに嬉しくなった。

そうして仲良くなると、彼らが知りたがるのは「日本ってどんな国なの?」「どういう生活をしているの?」ということだ。

高校3年生の私は愕然とした。

東京は大都市だと言うけど、人口はどのくらいなの?
どうしてサムライはいなくなっちゃったの?
どうしてあんな使いづらそうな棒2本を使ってご飯を食べるの?
どうして日本人の子をパーティーに誘っても、イエスかノーかはっきりしないの?

自分の国、自分の文化のことなのに、英語で、いや、日本語だってきちんと説明できない。
ずっと外国に憧れてきたけれど、そもそも自分の足元の歴史も文化もちゃんとわかっていないんじゃない?

国際交流するんだからと、浴衣やおせんべいを日本文化だと思ってスーツケースに入れてきた。
でも、必要なのはモノよりも、もっと自分自身がきちんと自分の国の歴史や文化をわかっていて、それを自分の視点できちんと説明できるということなんだ。

ショックだった。

そして極めつけのように、もどかしさが頂点に達した経験がある。

その短期留学プログラムは、ただの語学研修ではなく、文化交流が大きな目的のひとつだったので、同じ国の学生が固まってしまわないように、数名ずつグループが作られ、美術館見学や、スポーツ大会などもそのチームで行動するようになっていた。
ただ、割合として日本人が多いので、1グループに2人の日本人がいることもあり、私のグループもそのひとつだった。
もうひとりの日本人は、私より2-3つ年上の大学生の男性だった。

本来そのプログラムは高校生のためのものなのだが、その年は某ハンバーガーチェーンのアルバイト学生へのご褒美旅行も一緒に引き受けていたらしい。
日本での出発前研修にはいなかった5-6名の大学生が突然現地で合流したのであちらも私達も驚いた。
しかも。
その大学生たちは、学校推薦でやってきた高校生たちと比べて、壊滅的に英会話ができなかった。

まあ、当然だろう。彼らは英会話するために日本でハンバーガーチェーンのバイトをしていたわけではない。
それに、優秀バイト生としてのご褒美旅行がまさか高校生と一緒に放り込まれる寮生活だなんて、あっちの方こそ勘弁してほしいと思っていたのかもしれない。

私のグループの大学生は、その中でもとりわけアウトローで、他の大学生と群れもせず、いつも芝生の端でひとりでタバコを吸っていた。
彼は「明日は7時50分にバス乗り場で集合」といった伝達事項も分からないようで、いつも遅れたり見当違いの場所にいっていた。
だんだん彼の英語力が明らかになってくると、リーダーは私に通訳をもとめ、スペイン人やモロッコ人の他のメンバーは彼に話しかけなくなった。
私が日本語で訳すと、彼は礼をいうわけでもなく、「そう」とぶっきぼうに言って去っていくだけだった。

アメリカ人のリーダーが説明の合間にチロッと私を見る。
そして日本人大学生も私をチロッと見る。
他は笑いを噛み殺す。
事情を知らない彼らには、何から何まで年下の小娘に頼らなくてはならない大学生の様子がおかしくてしょうがなかったのだろう。

「あの。もうちょっとゆっくり話してもらうようにいうので、もう少し英語を聞く姿勢というか、あの…」

我慢ができなくなって、ある時私は大学生にそう話しかけた。

「うっせーんだよ」

助けてもらってるのはそっちなのに?
情けなかった。
同じ日本人として恥ずかしい、と思った。

だから、アメリカ人のリーダーのところに相談しにいった。

けれど。

「意味がわからないんだが」

と、リーダーはいった。

「キミはキミで、彼は彼だろう?なんで、同じ国から来たということだけで、キミが恥ずかしい思いをするんだ?キミの英語は数段上で、コミュニケーションも取れて、まったく困ることはないじゃないか。それぞれ独立した個人だというのになぜお互いを結びつけるのかがわからないんだが」

そう。私の気持ちは、アメリカ人のリーダーにはまったく伝わらなかったのだ。

今だったら、アメリカ人の根底には個人主義という考えがあるからだろうと分かる。
それと対照的な、日本人のもつ連帯責任という感覚を説明したり、ベネディクトの『菊と刀』にあるような「恥の文化」についても引用できるかもしれない。
けれど、その時の自分は分かってもらえないという事実に愕然とするだけで、ことばをなくしてしまった。

文化背景が違うがゆえに、私の感情を理解してもらえない体験が初めてだったので、どうしたらいいかわからなくなってしまったのだ。

何とか分かってもらいたい。
でも、視点が全く違う相手に、自分の思考回路を系統だてて説明するすべを知らなかった。
もしそのテクニックがあったとしても、なにしろ英語力が圧倒的に不足していた。

だから、仕方なく私が憤りを感じていることだけでも伝えなければと思い、説明を言い換えた。

「私は、必死にバイトして費用を貯めて親も説得してようやくアメリカまでやってきた。それは、彼のように努力しない人の通訳をするためじゃない。せめて少しでも聞き取ろうとか、頑張ろうという姿勢がないひとの助けをして時間を無駄にしたくない」

「そうか。彼のために、キミが迷惑を受けているのは確かだね。その気持はよくわかるよ」

でも、本当はそんなことじゃなかった。
助けることは別に構わなかった。
辛かったのは、彼が笑われていることを、日本人が笑われていると思ったからだし、それに立ち向かおうとしない彼の姿勢が同じ日本人として情けなかったのに。

これをきっかけに、自分を伝えるには、まず最初に自分がそれまで育ってきた背景、文化、風習を語る力を身につけなくてはいけないと思うようになった。

自分個人の体験や思想ももちろん伝えたい。しかし、そもそもベースとなる文化風習が大いに影響を及ぼしている以上、それなしでは語れない。

そして、その文化の重要な要素として、自分の思考をつかさどっている日本語という言語を、まずきちんと勉強するべきだろう。

中学3年のときの担任に返す回答が見つかった。

「英語で何を語るのか」

それは、

「自分」そして「自分の文化」だ。

そこには、ちょっと邪な思いもあった。
もし世界中で日本語を話す人が増えたら、あの夏、スペイン人とベネズエラ人がスペイン語ですぐに会話できていたように、私にも日本語で会話できる外国人の仲間ができるかもしれないと期待したのだ。
そうしたら、私ががんばって英語を勉強しなくても済むのかも。

しかし、それは、甘かった。

文学部国文科に進み、日本語教授法を学ぶことにした私は、日本語を外国語として教えるためには、自分自身が外国語をそれなりに話せなくては文法の説明すらままならないと思い知る。

それに、国語である日本語を客観的にみるというのは、その器の中にいては難しい。
別の言語を学び対照的に捉えることで、日本語のことを外国語として、他人の目でみることができるようになる。

だから、英語をそして韓国語も勉強しなくちゃならなかった。

こうして、私は日本語学と日本語教授法というものを学び、大学を卒業し、大学院にいくお金がなかったので、就職をした。

仕事が気に入ればそのまま頑張ろう。そうじゃなかったら予定通りアメリカでの日本語教師をめざして、大学院に留学しよう。そう思っていた。

けれど。

その前に幸運に恵まれ、日本政府の派遣する日本語教師としてアメリカの公立学校で教えるチャンスが与えられた。
そして、実際に教室で教えてみると、むしろ、自分が目指しているのは「ことばをわかった上で、ことばを超えたところ」にあると気がついた。

言語学じゃない。
そう思って、代わりにMBAを取ることにした。

逐語的に、日本語を英語に、あるいはその逆に訳すというのは、「オレンジ色の猫」を生むだけなのだ。
鈴木孝夫先生の「日本語と外国語」(岩波新書)にあるように、カラーチャートにならぶ色を指差して「これは何色?」と実験すると、英語文化圏でオレンジの範疇に入れられる色が日本語文化圏では明るい茶色にあたるとわかる。

私は大学でこの本を読んだとき、10年も前のあの「オレンジ色の猫」の謎が解けて本当にすっきりしたものだ。
そして、Oraneをオレンジ、Brownを茶色に単純に訳してしまうことの難しさを、他のいろいろな自分の経験に重ねることができた。

単純な対訳をしてしまうと、うしろにあるギャップを見落としてしまう可能性がある。

そのうしろにあるもの。

それは商習慣やマナーなど、ことばの外側にあるものだ。

たとえば日本の会社とアメリカの会社がやり取りをしていて、お互いが納得していたはずなのにいざとなったらイメージしていたものが違っていた、と齟齬がみつかることがある。
それは、言葉だけをきちんと訳していても埋まらない。

それをビジネスの世界で埋めていけたら。

こうして、言語学を離れることにした私は、帰国後、日本の外資企業で、文化の違う組織を取り持つことを念頭に置きながら仕事をした。

アメリカの研究所と日本の営業。
アイルランドの工場と日本の品質管理。
シンガポールの経理部門と日本の原価管理部。
ちょっとだけ、相手の文化だったらこう発想するからと想像力を働かせるだけで、驚くほど誤解が減った。

そして、その経験を踏まえて、イギリスにある本社と、アジアや南米や中東やヨーロッパのほかの国との間を取り持つ仕事にたずさわることになった。

英語を仕事の道具として使う今、あのときの担任の先生への回答は

「プロとしての専門知識、そして相手の立場にたったわかりやすい解説」

とでもなるだろうか。

もちろん仕事だけではない。
イギリス人、スペイン人、イタリア人やポーランド人。ロンドンにいるいろんな文化背景の友達とやり取りをする中で、どうやったら自分の気持ちや言いたいことをわかってもらえるか考えながら使う道具でもある。

逆に、私がいま日本にいる家族や友達と話すとき、日本人ではあるものの海外で数年暮らし、ものごとの見方が少し普通の日本人ぽくない自分を、日本語を道具にして伝えている。

面白いことに、英語だと自然に自分の発言や文章が非常に論理的になるが、日本語だと心の機微をたくさん含んだ情緒的なものになる。

英語を使う自分も日本語を話す自分も、どちらも私で、両方ともが自分を表現する素晴らしい「道具」なのだ。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。