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2階にむかってください

あの出会いが今につながった。そんな、あなたにとって大切なビジネスの出会いを教えてください、そう尋ねられたら。

面影が目に浮かんだひとがいる。

その出会いは今から20年ほど前、サンフランシスコでのことだった。

「MBAで学んだことが、なにかそのまま役に立つというわけじゃないから。むしろ、仕事を始める前に、学ぶという時間をしっかり楽しんでください」

卒業までに身に着けておくこと、勉強しておくことはありますかという面接最後の質問に、糸田さん(仮名)は柔らかい表情でそういった。

言語学で大学院に進学するつもりだった私は、その前に体験した日本語教師生活で、壁にぶち当たってしまった。
そのままアカデミアの世界に進むことが想像できなくなり、かといって日本にすごすごと逃げ帰るわけにもいかず、迷ったすえ、私はMBAに進路変更することにした。

ただでさえ転職がまだめずらしかったころ。
しかもオンナ。

日本にやがて戻るなら、30前にしないと再就職は難しいよという助言に焦った私は、通常2年はかかるのカリキュラムを、夏学期から1年半で卒業しようと、無理やり講義を詰め込んだ。

年齢だけじゃない。
専攻を変えた結果、学費が莫大にかさむことになってしまい、卒業までの費用をとにかく切り詰める必要があった。だから、とっとと卒業し、就職して収入を得なくてはならなかったのだ。

できることならこのままアメリカで就職したい。
でも、卒業を急ぐがゆえにインターンをすることもままならぬ。

学部のときの専攻は潰しのきかぬ日本語学。
大学院になって急にMBAを取った私に、そもそもインターンのチャンスが簡単に見つかるわけもない。

そんなとき、決定的な事件が起こった。

アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロじけん、英: September 11 attacks)は、2001年9月11日(火)の朝にイスラム過激派テロ組織アルカイダによって行われたアメリカ合衆国に対する4つの協調的なテロ攻撃。9.11事件(きゅういちいちじけん)と呼称される場合もある。

「アメリカ同時多発テロ事件」
ウィキペディアより

アメリカ中が一気にナショナリズムを強め、アンチ外国人の空気が濃くなっていく。
街を歩くと、遠巻きに嫌がらせの声を掛けられる日が始まった。

そんななか、外国人留学生をビザサポートをしてまで雇うなんてありえない。
しかも、毎秋ボストンで行われていた日本人留学生むけの就職フェアも、安全が確保できないという理由でキャンセルされてしまった。

1月には卒業できる、いや、してしまう。
なのに、これじゃあ大学を卒業したときの氷河期の繰り返しだ。

また就職難民になってしまうのか。

と、理系のコースを取っていた日本人留学生が、サンフランシスコの日本人留学生むけ就職フェアは開催されるらしいと教えてくれた。
ただし、シリコンバレーを意識し、メインはIT企業だけど。

明らかに専門外。
でも、これにすがるしかない。

私はさっそく当時スタンフォード大学にいたアメリカ妹に連絡し、泊めてもらうことにした。
宿代は無しとはいえ、それでも飛行機代が往復500ドル。
家賃一か月分がぶっ飛んでしまう。

ここに賭けるしかない。

「履歴書確かに受領しました。糸田」

メールアドレスに、その大手IT企業の社名のドメインを見た瞬間、ドキリとした。
でも、文面はただそれだけで、面接をしましょうとは書かれていなかった。

まあそうだよなあ。
ほかにも銀行のIT部門、システムコンサルティング会社など、いくつもフェアの開催前の山のように履歴書を送った。
けれど、そのIT企業以外、受領の返事すらくることはなかった。

当日。

会場のホテルは、まるで日本を引っ越ししてきたように、リクルートスーツを着込んだ学生たちであふれていた。

どの企業のブースにも「面接受付」とサインがあり、事前の履歴書送付の段階で選抜された人たちが、さくさくと別室に案内されていた。

どこにもなにもアポの取れていない私は、ダメモトでそれぞれの企業ブースに行ってみるしかなかった。

その日、それでもひとつだけ、中堅のコンサルティング会社が私に興味を示し、取締役が一緒に仕事をしようと云ってくれたのがせめてもの救いだった。

アメリカで修士を取ったら、そのまま人生のドアが開くなどと安易には思っていなかった。

けれど。
あの就職氷河期のときの苦しみが、
また繰り返されるとも、思っていなかった。

500ドルも払ったんだ。
ここで終わるわけにはいかない。

ええい、ここまできたら、捨て身の作戦だ。

2日目。

私は、あのIT大手企業のブースに向かっていた。

そこには「弊社担当からメールをお送りしている方はお申し出ください」と書いてあったから。

「面接受付」にいくなら嘘になる。
でも、メールならもらっている。

受け取ったというだけの受領メールだけど。

人事のひとは、印刷されたリストを何枚もめくり、私の名前を探した。

「申し訳ありません。手違いがあったかもしれないので、ちょっとお待ちください」

そういって、彼女は上階へと消えていった。

手違いじゃありませんよ。
だって面接者には選ばれていないもの。

心の中でそう思いながら、まあ、これであの糸田さんというひとが「そんな応募者しらないよ」と返事して終わるんだろうなあ。
私はブースに立ち、そう考えていた。

「お待たせしました。糸田がお会いいたします。あそこの階段から2階へ向かってください」

息を切らせて戻ってきた人事のひとが、そういったので驚いた。

うそ。
ドアが、開いたのかも。

その同じ人事のひとが、「次の面接者が待ってます」と声をかけにくるまで。
糸田さんと私の会話はずっと続いた。

「大学院で学んだことが、なにかそのまま役に立つというわけじゃないから。むしろ、仕事を始める前に、学ぶという時間をしっかり楽しんでください」

こう糸田さんがいったとき、もしかしてうまくいったのかなという気がした。
待ってるよと云われているような。

でも、どうだろう。
面接に呼ばれてもいないのに嘘をついたのだから、やっぱり信用はされないのかもしれない。

2002年の2月。
私はこの糸田さんの率いる部門に晴れて加わることになった。

「あんときさ、ビジネスコンサルティングとかグローバルソリューションの部門にはいっぱい面接者が続いててさ。
だけど、ぼくんとこは人気がないなあってふてくされてたんだよね。
せっかくサンフランシスコまではるばる採用に来たのにと思ってたら、人事がメールもらったという学生が来てますっていうからさ。
いいよ、暇だから連れておいでっていったの」

やっぱり、気づいていたのだ。
私が当たって砕けろと突撃してきたことを。

糸田さんは、もらったメールには必ず返事を書くひとだった。

「メールというのは電話と違って絶対確認できるテクノロジーじゃないからね。自分あてのものには、届いたかどうかちゃんと返事をしないといけないよ」

私の直属の上司には、私の入社前にこう云っていたらしい。

「アメリカで採用してきたひとはね、すごいたくましい女性だよ。英語ができるとかそういうことじゃない。この部門を変えていってくれそうなひとだよ」

働き始めて数か月経ったころ。
上司やほかのメンバーとだいぶ打ち解けはじめ、会社の帰りに飲みに行った。
その席で、そう聞かされて、なんだかとても嬉しかった。
糸田さん、私がダメモトで突撃してきたことを、たくましさとして評価してくれたのか。

上司はビールのコップを手につづけた。

「なにしろ、鳴り物入りでサンフランシスコまで採用に行っただろ。
そんで、たくましい女性なんていうからさ。どんなにすごいアメリカかぶれの怖いひとが来ちゃうんだろうと、正直おびえてたんだよ。
でも、ちゃんと日本とアメリカのバランスを取れるキミみたいなひとだっただろ。
オレ、糸田さん見直しちゃったんだよ。
ちゃんとうちの組織のおじさんたちの現実をわかってんだなって」

こうして、新しいキャリアへの門戸を開けてもらっただけじゃない。

糸田さんには、本当にいろんなことを学んだ。

アメリカ本社からトップが工場へやってきたとき、プレゼン準備のあいだに何度もなんどもダメ出しされた。
でも、そこから教わった、正確な数字や、明確な意図や、論理をふまえたストーリーづくりの大切さは、そのあと世界中でプレゼンするのに役立った。

日本ではもっと女性の立場を引き上げなくてはならないからと、ニューヨークで開かれたテクノロジー分野に働く女性の会議に派遣してもらった。

そしてなによりも。
糸田さんは、リーダーとは、感情のある人間をまとめ率いるものなのだということを教えてくれた。

それは、MBAの授業でやったケーススタディとは違い、血が通い涙が流れるものだった。

なによりも、私が一番尊敬する糸田さんの一面は、その去り際にある。

切磋琢磨し、鍛えられ、学ぶことだらけだったその組織に、企業買収の嵐がやってきたとき。

残留組と売られる組とに振り分ける人員整理によって、数々の挑戦を団結し乗り切ってきたその部門はズタズタに切り刻まれてしまった。

あいつは残れるんだろ。
俺は売られるのに。

そんなどす黒い感情がドロドロ渦巻く日が続いた。

いつも冗談と笑い声が絶えなかったプレハブの事務棟から、すっかり笑顔が消えた。

そして分割買収劇のすべてが終わり。
本当だったら糸田さんは新しい組織の上層部として残留するはずだった。
けれど。

「いろんな人の人生をここまで左右するようなことをしたしね。
少し前倒しで、ゴルフ三昧の人生を始めることにするよ」

そういって、でも、早期退職のパッケージにはもう遅すぎるタイミングで。

糸田さんはリタイアされた。
ばらばらになってしまった組織では、大きな送別会もできなかった。

あの日、サンフランシスコで、糸田さんがいたずらっ気を起こして私を2階に呼び出さなかったら。
私はどこにも就職できないまま、敗北感を抱え日本に戻っていただろう。

アメリカと中国のチームとの共同システム開発のプロジェクトに代表として送り出してくれなかったら。
次のイギリス系企業への転職もあり得なかっただろう。

あの出会いが今につながった。

いや、あの出会いがなかったら、
今の私のすべてが起こりえなかっただろう。

その感謝の気持ちは、私が自分のキャリアの中でどのようにひとと関わっていくかを通して、表したいと思う。

人の可能性を読み取って、チャンスを与え。
血の通った人間として常にコミュニケーションをとる。

私もそんな糸田さんのようなリーダーを目指していたい。

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