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文学フリマ東京36行った

 文学フリマというイベントをご存じだろうか。まあ知らないのならこのページを開くことなどそうそうないだろうから、手短に済ませよう。

 同人即売会のなかでも「文学」に特化したイベントとなっており、それだけだと一般的には地味な印象を抱かれるかもしれないが、今回の文学フリマ東京36の来場者数は一万を超える規模にまで成長した、刺さる人には刺さる即売会だ。


文学フリマ公式サイト

 もれなく自分もぶっ刺さった肉の列に連なっているわけで、気が付くまでもなく出店者——本来なら「出展者」と書きたいのだが、文学フリマ公式は「店」の表記をしているのでそちらに合わせようと思う——としてもう何度も参加をしている。熱気もさることながら、今では栄華をすっかり忘れてしまった「文学」というジャンルがこんなにも多くの人に愛されているのだと再確認できる場として、ぼくは非常に楽しんでいる。
 イベントに友人なんてひとりもいなかったころから、通路を歩く人たちほぼ全員がなにかしらの「文学」との出会いをしにきていると思うと、胸が高鳴ったことを今でも覚えている。

 そして5月の21日に開催された文学フリマ東京36にも案の定出店してきた感想を書こうと、こうしてひさびさのnote更新とあいなった。ぼくとしてはここからある程度定期的にnoteの更新ができればなと考えているが、もちろん不確定なことなのであまり本気にしないでほしい。
 たとえばそれは、イベント前に頒布数の予想をすることくらいに、どうなるかなんて分からないものなのだ。


1 無視されるイベント


 文学フリマにはじめて出店したときのことを覚えているかというと、ハッキリといえるが、もうまともには覚えていない。もしかすると忘れたいだけなのかもしれないが、今とはサークルも違うし気合の入りかたも違うし、ペンネームも違えばなにもかもが違う。だからあまり今のぼくとの連続性を感じることが、ぼく自身ではできないのだ。2016年の春が初参加だから、まだ10年も経っていないのに、人間の記憶とはかくも不安定なものらしい。

 で、おそらくそのころからなのだとは思うが、ぼくが同人即売会に出店するときに毎回思うのは、「この場所は基本的にはおおぜいに自分の書いた本を読まれもせず、無視されるところだ」という超絶当たり前の事実である。
 ぼく(たち)は本を書いているときから、だれかに読んでほしいという願望を持ち合わせ、どうにかこうにか原稿を上げて当日荷物を引きずって設営までしてイベントを迎える。しかしながら、そんな苦労なんてほかの人間からすればどうでもいいことだし、ぼくだって通路を歩きながら1ブースごとに感動を覚えるようなピュアネスを備えてもいない。出店者というのは、基本的にそういうものだ、と思っている。
 
 もちろん人間は都合がいい生き物なので、いざブースの前を通りすぎていく人間を目の当たりにすれば、どうか考え直してくれまいかと念を飛ばしてしまうし、思わせぶりに立ち止まった人がスマホを覗き込み、目当てのサークルを確認しはじめたら大なり小なり落胆してしまうのは避けられないだろう。
 ぼくはもうかなり慣れたものだから、とくになにも思わない。100%ではないけれど。

 じゃあぼくが目当ての頒布物を買いに行くときにそういうことをしないのかというと、めっちゃしてしまうのだから、そんなもんだ。ぼくはべつにマナーがうんぬん、出店者に気を遣ってくださないな、なんてお願いをするつもりはない。みんなが好きなように楽しんだ結果、ぼくたち出店者は多くの人に無視をされまくる。なんて最高なイベントなんだと思う。
 ぼくの渾身の新作『花と負け組』を前にして、素通りできる人間が、この世界にいるだなんて。世界は広いなと感嘆してしまったくらいだ。

 ぼくたちはひとしく塵芥だ。もちろん大人気作家がブースを出していれば話は違うのかもしれないが、通る人全員が目を向けているわけもないし、実際にぼくは文フリに来る商業作家の本をまともに買ったことはない。
 というか、同人即売会なのだからぼくが知らない作家の本が欲しかったり、商業ベースでは手に入らない人のものに手を伸ばしたいのだ。プロの限定本もあるにはあるが、ぼくはそもそも「限定もの」という概念も好きじゃないので、無視する。べつに買いたい人を否定はしないけど、ぼくは買わないという話だ。

 脱線したので話を戻すが、文フリにいる出店者はひとしく無視をされまくる。そのフラットな扱いが、ぼくたちに文化の本質を思い出させてくれると、ぼくは思う。
 せいぜい桁が1個違うくらいで、頒布できる本の数だって資本の世界では小さな差だ。プロの作家とぼくの差なんて、イーロン・マスクとの年収バトルとくらべればどんぐりの背くらべでしかない。これだけは、確信を持っていえる。
 ぼくは超絶当たり前のその事実に、文化のすばらしさを覚えている。
 初出店の記憶はなくなっても、これだけは忘れない。


2 無視しない人々


 ぼくはべつに、全員に無視されているかといえばまったくそんなことはない。というか個人的願望でいうのなら、だれひとり無視してほしくないし、来場者の全員が自分のブースに突撃してくれればいいと本気で思う。

 ぼくは、本気だ。

 さて、そんな本気を受け取ってくれた方々もたくさんいるというのも、イベントに出る醍醐味だろう。というか、まっさきにこれを挙げるべきというくらいに、醍醐味中の醍醐味だ。

 ぼくは今回のイベントに合わせて、上下巻ものの長編『花と負け組』というエンタメ小説を書き上げた。高校生3人組のプロジェクション・マッピングと、横浜みなとみらいで起こる自殺事件を追う、思想的でありそれ以上に単におもしろい、という作品に仕上がったと思う。詳しくは、ぼくじゃないだれかが語ればいいから、自分ではまだ、説明はしない。とりあえず読んでほしい。無理ならいいけれど。


(通販もやっているのでよければ画像をクリックしてみてほしい)


『花と負け組』を買っていった人のなかには、知り合いもいればそうでない人――ぼくが認知できていないだけで、話したことがあったら悪いと思う――もいて、どちらにせよ嬉しい気持ちにさせられた。

 その前提で、ぼくはやはり、自分の知らない人が作品を手に取ってくれるともうこれ以上ないくらいに嬉しくなる。知り合いということで互いに本を求めあうのももちろん楽しいし、実に文化的な交流だが、名も知らぬだれかに、自分の作品の力だけで本を買おうと思ってもらえるだなんて、クリエーター冥利に尽きる。

 買ってくれる理由は様々だろう。単純に話が気になった人、表紙に目を持っていかれた人、事前に作っておいたPVを見た人もいたと信じたい。

 ぼくがまったく気にしていなくとも、知らないあいだにぼくの作品を好んでくれる人が、ここ最近はとくに増えたように思う。本当にありがたい話だ。「いまある既刊本はすべて読んだから、もっと昔に出した同人誌が残っていないか」というようなご連絡も頂いて、見てくれている人もいるのだなと驚いた。

 できることなら、こういうことがもっと増えればいいと思う。ぼくはとっても幸せなクリエーターだと自分のことを分かっている。
 けれど、毛ほども満足なんかしちゃいない。
 もっとたくさんの人に読まれたい。こんなんじゃ終われない。毎度のように思う。天国と地獄みたいな心持で、叶わない願いを抱えながら次の本を書くのだ。

 それでいいと思う。ぼくのブースに来てくれた人がいなければ、見えている光景は地獄だけだったのだから。荒野を歩くだけの潤いを与えてくれてありがとう。これでまだ、焼かれるような思いでいられる。
 あらためて感謝申し上げる。

 ぼくはぼくの本を見にきてくれた人のことを愛しているし、これから来ようと思っている人のことも先制的に愛している。作品というものはぼくという人間よりもずっと、ぼくの言いたいこと、好きなこと、嫌いなこと、あるいは自覚すらしていないなにかを表現してくれる。ぼくという人間はわりと醜いし、うるさいしガサツだから、せいぜい恋人が愛してくれれば満足するし、それでいいと思っている。幸せだ。

 でも作品は違う。ぼくの頭のなかは、ぼく以上になかなかいい。それに気が付いてくれる人たちのことが、ぼくは好きだ。愛している。

 ぼくは、本気だ。


3 数について、あるいは新作の構想


 というわけで文学フリマについて、というかイベントに行ってぼんやりと思ったことなどをつらつらと書いたわけだが、Twitterのタイムライン上では昨今の文学フリマの傾向などについて軽く話題になっていたようだ。
 
 ようするには、「売れているところとそうでないところの差が大きい」ということだったり、そもそも人が増えたことにより昔にはあった「おだやかに文学を楽しむ」という雰囲気の人々より「ある種のミーハー」な人が増えたとか、まあそういう話だ。

 ぼくとしては、やはりあまり気にしていない。
 ぼくは特別売れているわけでもなければ、まったく売れていないわけでもない、中堅? くらいのサークルだろう。ひとりで書いた小説で1イベントにつき3桁を超えて頒布しているのだからがんばっているとは思うが、それ以上でもそれ以下でもない。

 じゃあこの話題に触れなきゃいいと自分でも思うが、結局のところ世界を変えるよりも自分が変わったほうが手っ取り早いなと思うので、それくらいは言っておこう。

 自分が特定のイベントを詰まらないと思うのなら、対処の仕方はふたつある。
 
 ひとつは別のイベントに行く、なりしそれを作る。
 ふたつめは楽しみ方を変える。

 というものだ。3つめにありえるとするなら、イベント主催者側になって内側から改革を起こすという手段もあるが、そこまでやれる人は多くはない。だいたいこのふたつのどちらかに落ち着くものだ。

 もちろん、今まで好きだったものが変わってしまうというのは悲しいことだし、文句だって言いたくなる。ぼくが挙げた対処なんて、言われるまでもなくだれもが知っていることだ。それを承知で嘆いているのだ、と言われればぼくだって反論なんてない。

 だけれども、とくに変わらず文学フリマを楽しんでいる人間としては、前述のような意見を見るとこうやって理屈っぽいことを思ってしまうことも理解してほしい。ぼくはまだまだあの場所をそのままで楽しんでいられるから、目の前で腐されると首を傾げてしまうというだけだ。
 これを書く権利は、文フリなどのイベントに文句を言う権利と同じく担保されてもいるから、まあ許してくれ。

「お前は多少売れているかもしれないが、自分はほとんど売れなかったんだぞ! お前に自分の気持ちは分からない!」と思われてもしかたないとも思う。

 ただぼくとしても、今回のスペースはおそらく会場中でトップクラスに人が歩いていないゾーンにあって、しんどいと思ったのも本音だ。事前に予測していた頒布数だって、ぜんぜん当てにならなかった。

https://twitter.com/Koroedainjune/status/1649629075030577154?s=20


 それでもなお、やっぱりこの問題にたいした関心が持てないのは、じゃあどうすればしんどくならないのか、を考えるようにしたからなのだ。


 イベントなんて不公平に決まっている。みんなひとしく無視されるが、その数はやはり人によって違うだろう。
 
 そこからどうしたいかは人それぞれで、やりたいようにやる権利を阻害することは、少なくともイベント運営側は基本的にできないので、みんなやりたいようにすればいい。で結論なのではないだろうか。

 売れたいならそうなるようにすればいいし、自分のやりたいようにやるのならそうすればいい。雰囲気が気に入らないのなら、別の雰囲気になるよう努力するとか、やれることはいろいろあるのだし。それを自分で考えるのが、同人の醍醐味だと、ぼくは思う。

 というわけで、ぼくはぼくでやりたいように次の作品を考えている。

 来年の春くらいには短編集を出そうと思っている。テーマというか一貫しているモチーフはコーヒーになる予定だ。といっても、おだやかなお話とか、コーヒーブレイクに持ってこい、という雰囲気にする気はさらさらない。ひさしぶりに短編を書くのだし、思いっきり自分が最高だと思う作品になるよう、ソリッドな文章にしていきたい。

 やれPVを作るだの、宣伝ツイートを工夫するだのというめんどうなこともしつつ、やはり肝心かなめの作品が一番大切なので、ぼくはまずそれを第一に考えていこうと思う。そのうえで、やれることをやっていこう。

「文学」も大事にして、「イベント」として工夫していく。ぼくなりの文学フリマの楽しみかただ。

 どういう風に、という具体的な話は今後ここに書いていければと思う。いっきに全部のネタを出したら、それこそネタ切れで更新ができなくなってしまう。

 あくまでも今回は、さわりというか、手短に済ませただけなのだ。まあとりあえず、今回はこのあたりで失礼する。

 次回もきっとあると思うが、やはりあまり本気にはしないでほしい。
 ここまで読んでくれてありがとう。

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