パクリ問答

みなさんはなにをパクったことがあるだろうか。

なにもパクったことないわけないだろう。

ぼくは横山大観が藝大(にのちになった学校)の受験で近くの席の人の描き方をなんとなく真似して描いて受かったという話が好きだ。どんな巨匠も、模倣から始まるという感じがして。

先日投稿した、とある方からいただいたDMへの返答を引くような長文で返したさまをお届けしたのだが、ぼくはその内容のなかで小説を書くさい「とりあえずパクっていけばいいのだ」みたいなことを書いた。

それについて批判が来たわけでもないが、なんとなく補足説明的にうだうだ無駄口を叩いていこうと思う。

こういうときに「まずパクるとはなにか?」などという定義についての話を展開したらただのドツボにハマるので、今回はそういうのはなしだ。

もちろん「パクリ」はよくて「オマージュ」はOK、などという戯言もいらない。そこに参戦するのは「元ネタ」はいいのかとか、「引用」にしとけば問題ないとか、すべてが終わってしまう方向に話が行くばかりだ。

パクリはパクリだ。悪意とかなんとか関係ない、とりあえずそうやって話を進めよう。

あらためての確認だが、ぼくは創作をするさい「とりあえずパクっとけ」論者なわけだが、もちろんなにもかもパクればいい、パクリこそすべて、と思っているようなパクリ原理主義者でもない。
あくまでも困ったときの脱出用パラシュートとして、「パクリ」を荷物に入れとけと言っているだけなのだ。

そして、穴の開いたパラシュートでは自分の作品を預けることはできない。パクリにも良し悪しはあるというところから、とりあえずは展開していこう。

仮になにか物語を作りたいという人がいたとして、好きな作品が『【推しの子】』だったとする。ぼくの考えならとりあえずパクればいいのだが、まさかここで「主人公が転生したら好きな子の子供になっていた」という部分をパクってくるとか、そんな愚行はしてはいけない。決まり手、丸だし、みたいなものだ。

あ、普通に『【推しの子】』のネタバレ注意で。

これはとっても当たり前の話だが、なるべくならパクリはバレないほうがいい。もちろんあえて分かってほしくてぶち込むこともあるだろうが、元ネタの奇抜なところとか、斬新だったところをそのまま持ってくるのはただの盗人、パクリという言葉どおりになってしまう。

ではどこを? という話なのだが答えはシンプル、応用可能な部分、骨組みみたいなものを借りてくるのがちょうどいい。

『【推しの子】』で例えるのなら、「母親の死を仕組んだ父親を打倒する、父殺しの物語」という部分はぶっこ抜いて構わないと思う。あ、ちなみにぼくはアニメ版しか観ていないので、原作ではこの前提が覆っているかもしれないけど。そしてできれば、そういうどんでん返しがあってほしいと期待もしている。

話を戻すと、おそらく考えられる反応としてぼくがパクっていいと言った『【推しの子】』の要素は、ヒットした要因としては薄いし、なにより作品の魅力が削がれているじゃないか。というものではないか。

そりゃそうだろう、その魅力を作るのは作者の役割だ。

なにもかもをパクリで済まそうとするのは言語道断。とくにひとつの作品から持ってくるのは絶対にNGだ。

ではどこまでならいいのか。そんなの流儀や倫理観によって変わるが、ぼく個人の見解としては「一読してなんの作品のことだか分からない」くらいの情報まで絞った作品の一部を借りてくるのは、全然問題ないと思う。

「主人公が幼いころから夢見ていた憧れの場所へ、仲間とともに進みながら、道中にだれかの陰謀や事件に巻き込まれる」
という話なら、元ネタが『ワンピース』なのか『メイドインアビス』なのか分からないだろうし、もうちょっとおおざっぱに見ればたいていの冒険譚がここに入るだろう。

で今の部分にさっきの「父殺し要素」とかも足しちゃえばいい。父親に関する伏線が冒険で手に入るし、父や母の謎が冒険の舞台と関わっているとか、なんでもやれる。

大切なのはなるべく多くの作品からいろいろパクってくることでもある。

逆にいえば、たくさんの要素を組み合わせるからこそ骨組みにあたるエピソードは端的で、なんにでも応用可能なものでなくてはならない。

生と死にまつわる話、父、神殺しの話、行って帰ってくる話、男女(もちろんあらゆる性で、
むしろ性がなくてもいい)のあれこれの話、よくある物語の骨組みなんてそんなものだし、そこからはみ出すのなら相当な覚悟と研究が必要で、できるのならぜひやってみてほしい。おもしろくなったら、本当にすごい。皮肉ではなくそう思う。

ようするに、まともなものを書こうとするのなら、ちゃんとパクってきたほうがいいんじゃないかな。とぼくが思っているだけの話だ。

他人からパクっていても他人と同じものしか作れない、ということに怯えてはいけない。

まず他人と同じものを作ってから物事というものは上手になるのだ。

そして、なんだかんだ違う人間が書いていくのだから、最終的に違う作品になるに決まっている。

作者のやりたいことが、作品で言いたいこと、見せたいこと、見たいことがあるのなら、おのずとそうなる。

横山大観の人生なんて、その問答でずっとできている気がする。

日本画とはなんなのかを岡倉天心から学び、そのまんまの思想で絵を描いて、しかし先達がみんな死んでいったあとに自分がそれを背負わなければならなくなって、戦争まで始まって……。
(たいして詳しくないので、ガチ反論はやめてね、優しくね)

その始まりはやっぱり模倣にあるのだから、パクリも捨てたもんじゃないと思うな。

以上雑感。

お幸せに。

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