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その歌、その音楽に、忘れていた時間を思い出した。


音楽と物語を愛するすべての方へ、小説の一片を!

ご紹介するのは、永井荷風の短編集「あめりか物語」の中の「旧恨」から。
B博士とオペラ談義をしていた私に、博士は、ワグナーのオペラによって破綻した、自身の結婚について話してくれました。

二十年前、新婚旅行で欧州を漫遊したB博士夫妻は、ウイーンでタンホイザーを観劇します。そのとき、B博士は、ある場面で激しく心を震わせ、放埓だった若き日々を思い出してしまいます。その状況が、次のように描写されています。

 ああ! 長き快楽の夢覚めて、己が身の罪に泣く楽師の心の中。私はその歌、その音楽から、突然ここに、忘れていた結婚以前の放縦な生涯、一時消失せた快楽の夢を思い起こしたのです。すると私にはもう舞台の上のタンホイザーは、我が過去の恍惚、煩悶、慙愧の風刺としか見えず、美しい邪教の神、快楽の神なるベナスは、ちょうど我が昔の情婦マリアンと呼ばれた若い女役者であるとしか思われなくなった。

観劇後、「タンホイザーの心理に合点がいかない点がある」と言う妻に、B博士は、熱く語ります。すると、妻の慧眼は、夫にタンホイザー同様の過去があることを見抜き、新婚旅行後、B博士に離婚を求めるのです。

それまでの独唱や詠唱を中心にした歌劇に対し、ワグナーは、音楽、文学、舞踊などの総合芸術として楽劇を創始したといわれます。
ワグナーの魔力、恐るべし、です。

「あめりか物語」は、後に永井荷風となる青年が、アメリカ遊学中の見聞や感懐を、フィクションとして綴ったものです。「『濹東綺譚』を書いた人の二十代の感性に触れることできる」、そう考えると、ドキドキします。

お立ち寄り頂き、ありがとうございました。

今回読んだ本 岩波文庫 永井荷風作「あめりか物語」

物語の一片 No.13 永井荷風作「旧恨(短編集 あめりか物語)」

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