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20-01. ジクムント・フロイト「近代社会のタブーを解明」

 フロイトについて書こうとして思い出したのは、実に唐突ながら日本の2人の政治家の名前でした。

 最初は自由民主党結党による保守合同を成し遂げた際の功労者で「ヤジ将軍」のあだ名が有名な三木武吉(1884~1956)です。
 彼は1952年10月の総選挙の際の立会演説会で、対立候補の激しい批判を浴びました。いわく、
 「戦後男女同権となったのに、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」
 これに対する三木の反論がすごいんですね。いわく、
 「(対立候補が)私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。……ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」
 と愛人の存在をあっさりと認め、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

 それから37年、昭和が平成に席を譲った1989年、ひょんなことから宇野宗佑(1922~1998年)という人物が総理大臣に就任しました。
 その直後のことです。彼は神楽坂の美人芸者を口説く際に、彼女に「指三本」を握らせたというニュースがすっぱ抜かれて、あらゆる角度から攻撃を受けざるを得なかったのです。
 で、同年7月23日の参院選では「リクルート事件」「消費税の導入」「農産物の自由化」という「逆風3点セット」も加わって自民党は大敗。彼は在任わずか69日で総理の座を追われたのでした。

 振り返ってみますと、日本での売春防止法の施行は三木武吉の演説から6年後、その33年後に宇野宗佑の「指三本」に伴う失脚が起こったことになります。
 いやはや時代の流れに伴う「性にかかわる倫理の変化」は意外に劇的で、かつスピーディなものだと気づかされる次第です。

 M・ヴェーバーによると、近代資本主義を成立させたのは禁欲的プロテスタンティズムの精神なのだという。とすれば、日本におけるその本格的開花は、1958年における売春防止法の施行にまでずれ込むという見方もできないわけではなさそうだ。男に関する限り、比較的おおらかだった近代日本の性規範は、これを契機として建前上の禁欲主義を露わに示すようになった。

 当時ぼくは14歳だった。やがて盛り場で出会うクロウト女性は金銭による性の取引を禁じられていた。一方、シロウト女性は純潔教育を受けた性の保守派であった。当然ぼくらは性的緊張の強い青春を送ることになった。
そんな時期 にフロイトの著作に接したぼくらは、彼のいう「抑圧」の意味が、なんだかよく理解できるような気がした。

 ジクムント・フロイトはオーストリア・ハンガリー帝国の辺境、モラビア地方の小都市フライベルク(現在はチェコのプシーボル)で生を受けた。その父親は著しく戒律の厳しいユダヤ商人であった。その息子として生まれたフロイトにも、ぼくらとよく似た事情があてはまるのかも知れない。
 それだけではない。彼の人格形成期にあたる19世紀後半は、ヨーロッパの資本主義が成熟し、世紀末の頽廃が兆した時代だ。が、他方では知的な中産階層の間に禁欲的な価値観が優勢になる時代でもあった。そんな時代に、神経細胞組織の生理学的研究に従事していたフロイトは、パリの神経病学者J・M ・シャルコーのもとに留学してヒステリー研究に向かう。

 やがてウィーンに戻ったフロイトは精神科の医師として開業する。で、ヒステリー患者の根本的治療に没頭した。
 その成果が、1895に出版されたJ・ブロイアーとの共著『ヒステリー研究』である。この書物のなかでヒステリーは、やや極端に要約すると、つぎのように説明される。つまり、
 「幼少時の不快な性的体験は精神に傷痕をもたらし、深刻な場合には自我を崩壊させかねない。自我を崩壊から守るために、傷痕となる記憶が、意識の深層に実在する無意識に抑圧される。だが、それは思春期を中心に、四肢の痙攣や嘔吐や感覚の麻陣など、多様な神経症状に転換されて顕在化する」


 1939年にフロイトが亡くなったあと、睡眠や夢、ヒステリーなどに関する認識は大きく変化しました。
 まず睡眠は「周期的に繰り返される生理的な意識の喪失状態」だとされます。で、睡眠は、急速眼球運動を伴うレム(REM:rapid eye movement)睡眠とそれを伴わないノンレム睡眠(徐波睡眠)とに分けられます。その発見は1953年のことでした。
 いっぽう夢は、眼球の急速運動以外は身体を動かせないレム睡眠時に見る幻覚――単に脳の記憶貯蔵庫から再生された過去の記憶映像――に過ぎないというのです。結果、フロイトの措定した「夢の意味」は科学的に雲散霧消しました。

 それだけではありません。1994年に発表されたアメリカ精神医学会の『精神障害の診断と統計マニュアル』は「ヒステリー」を歴史的な用語として葬り去りました。で、かわりに「身体化障害」という用語が使われるようになったわけです。
 では「身体化障害」とは何か。それは「転換性障害」と「解離性障害」に分けられるようです。
 たとえばストレスの多い出来事の後に起こる発作や麻痺、歩行障害や会話困難などが「転換性障害」です。他方「解離性障害」とは「自分が自分であるという感覚が失われている状態が主となる精神障害」だというのです。
 まあ、近代科学を人間の心身に適用すると、
 「実に散文的になるんだなあ」
 という感慨を喚起されるのですが、結果、そのことで救われる人間の心身もあるということなのでしょう。
 こうなると「フロイトの仕事は意味を失った」いうことになるのでしょうが、うーん、若いころに彼の著作を楽しみながら読んだ身としては、
 「そう簡単に結論を急ぐのもなあ」
 などと思わされたりするわけです。

 さて、ここで思い出すべきは「病としてのヒステリー」の歴史である。それは「子宮」を意味するギリシャ語(hystera)に由来する女性特有の病気だと考えられた。だから中世ヨーロッパでは「魔女の仕業」であるとして子宮摘出が試みられたりした。
 それが19世紀後半、F・メスマーやシャルコーによって神経症と見なされ、催眠術によって治療されるようになる。

 それをフロイトは、自由連想法を用いた精神分析療法に改造した。つまり、患者に神経症状をきっかけに、長時間をかけて自由な連想を語らせ、最終的には意識下に抑圧されているトラウマ(心的外傷)を意識化させる。こうした手続きを踏むことで精神的葛藤を昇華させられると考えたのである。
 結果、フロイトが「可逆的な精神病」だと考えた「夢」が重要な意味を持ち始める。まず「夢」を「覚醒時には意識によって抑圧されている葛藤や願望が、睡眠時に自我の検閲をすり抜けて顕在化するイメージ」だと考えた。

 で、彼の最高の自信作だとされる書物の表題どおり「夢判断」を施すことで、それを見た人の無意識に潜在する葛藤や願望が解明されるというのだ。
こうしたフロイトの精神分析学は近代科学の撞着そのものの結果にほかならない。なぜなら、近代科学とは物質を原子にまで分解し、その本質と運動を相互の因果関係の解明によって認識しようとする営みだからだ。で、科学は精神を考察の対象からはずす。が、フロイトは、それが演じる不可解な現象を厳密な因果論で説明し、その本質と構造を捉え直そうとしたのだ。

 事実、やがて彼の仕事は人間精神の構造と発達の解明へと進んでいく。その前提として彼は「リビドー」という名のエロス(生)のエネルギーの存在を想定した。それは生まれつき人間の精神に備わっている。が、組織化はされていない。そこでフロイトはリビドーの作用する局面を、当初は意識と前意識と無意識、ついで位相をずらせてエス(イド)と自我と超自我の3つに区別した。
 ここで「エス」とは、時空間の分節もできぬ新生児の混沌とした心の状態であり、快楽原則によって支配される本能のるつぼだとする。それに対して「自我」はエスと正反対の性質を持ち、組織化されて時空間を分節し、現実原則に支配されてエスと外界を合理的に媒介する。そして「超自我」とは、両親像が摂取されて自我の一部になったものだと考えるのである。

 近代が称揚した理性に目覚めたはずの人類が、20世紀には2度の世界大戦を起こします。その死者は優に1億人を超えました。そんな時代が始まろうとする19世紀末、フロイトは理性の極北にある無意識の研究に着手したのです。
 それは20世紀初頭の芸術家に強い影響を及ぼしました。たとえば詩人のアンドレ・ブルトン(1896~1966)は「自動書記」を始めます。何か別の存在に憑依されて肉体を支配されているかのように、自分の意識とは無関係に動く手で詩作を試みたりしたのです。まあ、狐の霊に問いかけて答をもらう「こっくりさん」などと似たような試みだったと言えるでしょう。で、第一次と第二次の大戦にはさまれた1924年、「シュルリアリズム(超現実主義)宣言」を起草します。

 こうした考え方を夢に適用して絵画作品を創出した画家にスペイン人のサルバドール・ダリ(1904~1989)がいます。ボクが初めて見た彼の作品の表題は確か「記憶の固執」でした。
 沙漠のような荒野に、木箱のようなものが置いてあって、その表面から一本の木が生えています。で、その台には、ぐにゃりと融けつつある腕時計のようなものが置いてある。現実にはありえない風景に「なんか不思議な絵やなあ」と思わされました。
 ただ、全体の構図は妙な具合なのですが、それぞれの要素は見事に写実的です。と、あるとき「パンの籠」という絵に出合いました。まるでカラー写真のようでした。それは22歳の画学生だったダリの作品で、絵画技術の巧みさに驚かされたものです。
 それから19年後の1945年にも彼はパン籠を描きます。その際の表題は「パン籠:屈辱より死を」というものでした。
 この作品では、キリスト教にとって聖なる存在である「ひと塊のパンの収められた籠」がテーブルの縁ぎりぎりに置かれています。その含意を示唆するような言葉をダリ自身が残しています。

 「パンは私が初めてフェティシズムと執念を題材として描いたものであり、私が畏敬の念を抱いた最初で最後のものである。私は19年前にも同じような作品を描いた。よく注意して2つの作品を見比べてみるといい。皆さんは目の当たりにするだろう。原始主義から芸術至上主義へと移り変わっていく歴史を」

 なんだかよく分かりません。が、19年前の「パン籠」が存在の安定を示唆していたのに対して、この作品の中のパン籠は、今にも床に落ちそうな風情です。何、なんでしょうかねえ。

 快楽原則に支配される新生児の「エス(混沌とした心の状態)」が、現実原則に基づいて外界を合理的に捉える「自我」を生じる。で、さらに両親像を摂取した「超自我」をはらむようになる。
 が、成長に伴って人間精神が好ましいバランスを整えるとは限らない。現に(昨今は「身体化障害」と呼ばれるようになった)ヒステリーなどの神経症は、これら心の諸要素の無意識における葛藤に原因があるとフロイトは考えた。
 それを自由連想法によって意識化し、自我に取り込み、リビドー(性衝動)の制御に成功すれば、症状もまた緩解するのだという。なお、晩年のフロイトは、エロス(生の本能)に対立するタナトス(死もしくは破壊の衝動)の存在に気づくに至る。

 このようにフロイトは、ヒステリー研究から出発して人間の心を近代科学的な視点で捉え直そうと試みた。で、さらに性とその精神エネルギー、意識の底にある無意識、死と破壊の衝動としてのタナトスなど、禁欲的プロテスタンティズムに導かれる近代社会のタブーのいくつかを白日のもとにさらそうとしたのだ。
 その結果、それは精神病理学の領域だけでなく、個人の深層心理を文化や社会に拡張して適用する方法を生み出した。それが広くフロイト主義として敷衍され、20世紀の芸術や思想や学問に、広く深く強い影響を及ぼすことになった。

 なかで、とくに目につくのはシュルレアリスム(超現実主義)への影響だ。それは近代が、古典古代に学んで再発見し、その主導原理とした「理性」ではなく、偶然や幻覚や夢や狂気などによって「現実を超えた世界」を探求しようとする芸術運動である。自動記述やコラージュなどの手法を援用して意識下の欲望と詩的想像力の過激な解放をめざした。のみならず、すぐれて20世紀的なこの芸術運動は、やがて近代ヨーロッパの秩序そのものを転覆させようとする衝動を露わに示すようになる。

 また、第2次世界大戦後、実存主義に根ざしつつ、人間の活動を、言語をはじめとする社会的なるものの深層に潜在する意味構造から理解しようとする思想運動、近代の理性主義を根底から批判しようとする構造主義が芽生えたとき、精神分析の方法は、それらの必要不可欠の要素と見なされた。
 このようにフロイトの生涯と業績は、近代社会の規範と秩序にとって「パンドラの匣」を開くような意味をはらんでいた。そのため20世紀の時代精神は、そんな困難を承知の上で、自らを打ち立てる必要に迫られることになったのかも知れない。

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