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自分の芝生が本当は一番

1996年7月30日。母が出産前に砂利道を運転したがために、その刺激を直に受け取った私は破水により1か月早く生まれてきた。生まれたての私はガッツ石松似で、母は本当に自分の子かと疑ったという。

小学1、2年の時、授業参観で「自分の名前の由来」を発表しなければならないことがあった。まだ6、7歳の私は期待を胸に母に自分の名前の由来を尋ねた。すると母は「ななか、ねねか、ももだった。同じ2文字って可愛いから」とあっさりと答えた。あの時のショックは今もなお覚えている。さすがの母も参観日でそうとは言えないよね、と悟ったらしく、参観日用に由来は考えられた。私は、そんな母が適当に感じられて、暫く嫌悪感を抱いていた。生まれたあとに考えられた由来。それは「ラッキーセブンのなな」だった。

母は私にゲームも携帯電話も持たせなかった。私は一人っ子で、帰れば必ず祖母がいたけれど一緒に再放送のいいともを観るか、水戸黄門を観るかだったので、退屈で仕方なかった。だから必然的に外で遊んだり、友達のお家で遊んだりしていた気がする。うちは兄弟もいなければ、母の帰りは20時過ぎだったから、寂しい思いをすることが多かった。いつも、〇〇ちゃんはいいな、と思っていたし、コンプレックスにまみれた幼少時代だったかもしれない。

ある時母がレンタルビデオショップでスピッツのアルバムを借りてきた。私が確か小学4年の頃だった。「ロビンソン」を、うちにあった水色のラジカセで初めて聴いた時は、子どもながらに草野マサムネの唯一無二の歌声に魅せられたし、あの独特なイントロのメロディラインにも興奮を覚えて、ディスクに入っている歌詞カードを見ながら、歌詞をひたすらノートに鉛筆で書き起こした。無我夢中とはこのことだった。それからは母と一緒に出かけてCDを選んだ。次に借りたのは確かYUIのアルバム。「Tomorrow's way」が一番好きだった。歌詞もメロディもYUIの声もストライクど真ん中だった。

母はよくカラオケに私を連れて行った。私はピアノは弾けないし、楽譜もスラスラと読めないけれど、耳が良くて音感があったから、3、4回聴けば音が取れた。歌詞はラジカセで何回も聴いて覚えるか、レンタルビデオショップで借りてきたCDの歌詞カードを見て覚えるか、カラオケの画面に流れる歌詞を歌いながら覚えるかだった。インターネットもパソコンもうちにはまだなかった頃。今でも割と難なく思い出せるあの頃。それくらいあの頃は強烈だった。


そんな私が初めて携帯電話を持ったのは高校1年生の頃で、LINEを登録した夏までの間、主な連絡手段といえばメールだった。当時気になっていた人とのメールのやり取りは、今思えば本当に楽しかった。今みたいに「既読」がつかない。いつ返信が来るのか「見えない」からこそどきどきしたし、送った文面を消すことが出来ないから、常に伝えるべき言葉を足したり引いたりして、まるで駆け引きみたいなことをしていた気がする。LINEが主な連絡手段となってから、私はそのスピード間に依存してしまったし、返答が返ってくることへのありがたみも前のように感じられなくなっていた。

そういえば携帯電話を持つ前は、文通が連絡手段だった。小学生の時両思いだった人は、転校生だった。その人はご両親の仕事の関係で間もなく仙台に転校した。私の両思いハッピー生活は一瞬で散った。電話番号も教えてもらったけれど、家の電話で連絡するのはなんだか気が引けたし「書くこと」が好きな私は手紙という手段を選んだ。彼とは何度か文通したけれど、私が手紙に入れたプロフィールの好きな人の欄に「りなちゃん」と書いて、消したあとに私の名前を書いた跡があって、その筆跡を確認して10歳ながらに心臓が壊れかけたことをこのタイミングで思い出した。りなちゃんは可愛くて、おしゃれで、ぷっくり唇がチャームポイントで、絵がうまくて、彼の席と近くて、2人のお家も近所にあった気がする。「りなちゃん」は私の友達だった。

日が経つにつれ、彼から送られてくる便せんが2枚から1枚になって、私に伝える内容にも距離を感じるようになった。そうこうしているうちに、手紙を通じての意思の疎通は途切れた。16年も前の話だしもう時効なのだけど、当時苦しかった気持ちとか、その友達に対するやきもちだとかいう感情は思い出として残っている。

あの頃の私は、隣を見ては自分の持ち物と相手の持ち物を比べては肩を落としていたように思える。自分以外の誰かを羨んでは「あんな風になりたかった」と一線を引いていた。だけど、今となっては「便利」をすぐに与えなかった母、この名前をつけた母の存在が、非常に偉大なのである。遠回りをすることが、むしろ私のアイデンティティというか、よくよく考えることができるのも、性に合う。余白の時間はもどかしい反面、愛おしい。周りの友達は、小中学校で携帯電話を持ち始めた。話についていけなかったり、連絡をする際にテンポ感が合わず不便さを感じたり、同じものを持つことで生まれる言いようのないグルーヴ感に飲み込まれそうな日もあって正直辛い時もあったけれど、それでもそんな環境だったからこそ便利さに染まらずに、環境に慣れ過ぎたときはこの心が違和感として私にシグナルを送ってくる。必然的に記憶に刻まざるを得ない環境だったことが「その瞬間を大切に生きる」ことや「反芻癖」に繋がっている気がする。写真を撮り、執筆をしながら創作活動をする私へのプレゼントのようなものにも感じてしまうのだ。便利な世の中に取り残されていく感覚は否めないけれど、スピードや合理性を重んじるあまりに、消えてしまうものがあることを私は知っている。それを教えてくれたのは、きっと母。着飾る前に、もっと大切なことがあるということ。持ち物で、自分の人生の価値は決まらない。ラッキーセブンの後付け由来も今ではお気に入りで、7月30日生まれなのも「ななさん」とキャッチーで、結構好きなのだ。

私の名刺に載せている写真

ゲームを持たない分、外で遊ぶことが多かった。友達も割と沢山いた。家族が少なく一人っ子だったけれど、遊びを通して「話す、聞く、想像する」というコミュニケーションを無意識のうちに習得したのかもしれない。ゲームを持たない分、母は海に車を走らせたり、音楽を与えてくれた。元々環境の変化に敏感だったり(住んでいる街を撮り始めるようになったのも、日常の変化に心が対応できず寂しかったから)執筆をする時音楽からヒントや着想を得たりするのも、きっと、きっと...。

あれだけ隣の芝生は青かったのに、
今は自分の芝生が一番愛おしいだなんて。

どうか、大切なことを見失わないように。
想像力を掻き立てて、今ある幸せを蔑ろにしないように。

未来の私へ、今の私が書く言葉。

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