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映画『チョコレートドーナツ』

■はじめに

1970年代の米カリフォルニア州、ゲイのカップルの2人が、偶然出会ったダウン症の少年を引き取り育てる様を描いたヒューマンドラマ。

*製作など補足(個人調べ)
・プロモーションで"実話をもとにした"とのコピーがあるが、実際には着想を得たのみで、ストーリー展開はほとんど事実と異なる。
・『チョコレートドーナツ』は邦題で、"少年の好物"と"心の穴を埋める作品"という趣旨を掛けたもの。重いテーマの作品を軽快なワードで包むことによってよりマスの興味を惹きつける意図だったのでは、という考察もあった

■感想

①マイノリティを描く、とは

Netflixでは、本作のジャンルを"LGBTQ映画"と分類している。
これらは性愛の在り方について問いかける作品群で、
2010年代から特に増えてきたように思う。

代表例:
2016年アカデミー作品賞受賞『ムーンライト』、
2013年『アデル、ブルーは熱い色』、2015年『キャロル』、
2016年『リリーのすべて』etc.

本作は2012年に公開されたが、
こうした代表的な作品例を見るに
一つのムーブメントの皮切りになった作品、
と言ってもいいのではないかと思う。

主役は、育ての親がゲイ、子供がダウン症の知的障害者と、大衆から隅に追いやられるような存在たち。
当時は、同性愛を告白することは社会的にタブーとされていた。

そんな時代背景で、自身がゲイであることを認める主人公のルディは
ドラァグクイーンのパフォーマーとしてひっそりと働いていた。
ルディは、自分の性愛の対象を理解し、
それを職業として活かし嘘なく生きるからこそ
彼の向ける愛情は偏見なく、平等なものだった。

親に見捨てられた少年・マルコを見つけた際、
彼がダウン症であるがゆえに社会から見捨てられることを
誰よりも危惧し、彼の身寄りがないかと本気で奔走する。
行政が用意した家庭局ですら
施設で人権なく扱われるーー
引き取り手がないことを悟ったルディは、
彼を自身の手で育てていくことを決める。

主人公・ルディと恋人のポール
(アラン・カミング、ギャレット・ディラハント)

苦悩した人間にしか、同じ苦悩を理解することは出来ないと思う。
その意味で、
マルコの立場に立って、マルコを本気で心配し
愛情を向けられる"理解のある"大人は、
どれくらいいるのだろうと思う。
同じ経験ができない我々の多くは、
マルコのような少年を同じ人間として扱うことができない。
(自分自身の反省を込めて)
ルディは、マルコと同じ社会的マイノリティとして
苦しんできた背景があるからこそ、彼を守り抜こうと
一他人でありながら責任感を持つことが出来たのではないか。

だが、社会は、それでいいのか。
LGBTQも障害者も、生まれた時にその運命を選ぶことはできない。
彼らが彼ら同士で身を寄せ合うような世の中で、いいのか?
親権を得るための裁判のシーンで、弁護士から
「社会的弱者の傷の舐め合いだ」と責められるシーンがあった。
"ゲイのカップルが障害者を育てている"という事実だけを知って
その背景まで思いを馳せられる人がどれだけいるのだろうか。
マジョリティに理解を生むことが、
本作が作品であることの意味ではないかと思う。

なお、本作を考察するにあたって一見
ゲイのカップルの親にフォーカスしがちになるが、
実際は周りと何も変わらない
1人の子供を守り切ろうとする親による
正しく自然な姿を描いている。
ところがゲイであるからという理由で、
見る側の論点が混在してしまう。
最も本質は、この少年をどう守るか?を
大人たちが真剣に考えるべきだ、ということ。
これが、本作の最後の最後まで訴えられていた。

②偏見と愛情のコントラスト

作品のテーマが重いほど、
各所に散りばめられた優しいシーンには
コントラスト的に愛情の深みが増す。
例えば、
・ルディの歌唱
(明るく、時には力強く想いを訴える)
・少年・マルコが向ける屈託のない笑顔。イノセントスマイル
・家族3人で過ごした1年間
だ。

特にこの3つの要素が掛け合わさったシーンが中盤であるのだが
そこは涙無しには見れなかった。
愛情がじわっと溢れるような、幸せで
それでいて苦しい気持ちになった。

ありがとうと言いたい、優しい優しい作品だった。

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(最後に)
今すごく、チョコレートドーナツが食べたい


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