見出し画像

主演女優賞あげちゃおう。「生まれ変わっても私がいい」と思えるように。

世の中に怒っていた。

高校3年生、放課後の職員室で「大学で何を一番頑張りましたか?と聞かれた時、学業と言えるようでありなさい」と言ってくれた先生がいた。その時、理想の働き方や職業を知り、幸せに生きるために、大学で勉強すると決めた。

大学1年生から、どんな社会人になるんだろうと自身に期待し、何をすべきかと考えた。もっというと、中学3年生で経営学部に行くと決めていた。幸せに生きたいと思っていた。幸せに生きるためにはお金と働き方が重要で、そのためには、「会社の在り方」を学べる経営学部がいいと思ったからだ。弱冠15歳の考えだが後悔はない。

それなのに、入学したら同じ大学の政治経済や商学部が大きい顔をしていた。わたしは経営学を学びたくて選んでいるのに、なぜ偏差値で「学校の看板ヅラ」をしているのだろう。興味の範囲に優劣はないはずなのに。全員が学業のために大学に来ている必要はないから、否定はしない。ただ、楽単だからといって興味のない授業を受けている人を見ると、なぜ大学に来たのかなぁ?という不思議さはあった。

自分の芯を持ち続けることに苦労はしなかったが、真面目であることが恥ずかしいような空気を感じた。大学を楽しくないと思った。ちょうど「意識高い系(笑)」という言葉が出始めた2012年の話だ。

大学2年生になり、大学外にコミュニティが欲しくて、創業半年のベンチャーで長期インターンを始めた。情熱を持って働く人を取材し、記事を書く仕事だった。ここを選んだと言うより、18歳のわたしには他の求人のイメージがつかなかったのだ。営業、サポート、開発、運用、人事と言われても、分かりそうで分からない。「取材に行き、質問し、聞いたことを書く」だけは想像できた。インタビューで多くの楽しく働く人に出会った。やっぱりまだ、仕事のイメージはつかなかったが、働くことは楽しそうだと知った。

大学3年生、就職活動の波に乗れなかった。みんなが当たり前にこなす業界研究や、ES執筆が特にお手上げだった。当時の1Dayインターンは(多分今は違う)長めの企業説明会兼、1次面接免除ラッキー券くらいなものだった。だから、なぜそれで企業を決められるのか、働くイメージが着くのか、教えて欲しかった。1年生から考え、1年間インターンをしたわたしが分からないのに、なんでわかるの?授業も真面目に受けていないのに、なんで突然業界を研究したら決められるの!と泣きたかった。助けて欲しかった。

「大学はそういう場所」と割り切っている社会(面接官)な気がして、それも嫌だった。わたしのことをわかってくれる人なんてどこにもいない。大切にしてきたものはなんだったんだろう。世の中から真面目なことは悪いこと、と言われている気がして悲しかった。

真面目だったので、就職活動を頑張ろうとはした。実際、自己分析だけは誰よりも楽しんだ。自己分析でよくある「人生グラフ」を書く中で、上昇している時代の共通点が「たのしいコミュニティにいるとき」だと気づいた。わたしを真面目な人と捉える人が多い環境ではなく「変わってるね(笑)」「お調子者だね!」と多面的に捉え、面白いと言ってくれる人が周りにいるとき、楽しいようだった。多様性を認めてくれる場所では、「このままのわたしが好き!」「自分は自分でいていいんだ」と思えた。

そういう居場所を作る仕事をしたいと思った。居場所作りでなくても、「このままのわたしが好き!」「自分は自分でいていいのだな」と思える人を増やす仕事をしたいと思った。でも、どうやったら仕事で実現できるのか分からなかった。わたしがただ「たのしい友達といたい」だけなんじゃないか?とも思った。

自己分析の中で「なぜ働くのか?」から「なぜ生きるのか?」を考えた。行き詰って友達に意見を問うたら「うける!宗教家かマザーテレサになりそう!笑」と複数に言われた。馬鹿にされたと思ったが、心を支える仕事をしたいと思っていたから、間違っていないと思った。

それ以上に、そこに触れずしてどうして働くことに対してReady to Go!なのか、本当に教えて欲しかった。なんでわたしだけが、こんなに働くイメージがつかないんだろうと、自分の想像力の足りなさを悔やんだ。

休学のきっかけとなったのは、障がい者向け事業をしている企業の社長講話だった。その社長は、自身が新卒入社ということで、自らの就活話をしてくれた。「大手金融企業に内定していたが、自分の20代という貴重な時間。命を使ってまでやりたいことではないと思って、今の企業に就職した。」と。

この言葉で「なんて自分の人生を生きていなかったんだろう」とハッとした。このまま行くと、なんとなく妥協した企業で、なんとなく暮らしていく未来が見えてしまった。

みんなが就活するからといって就活をしている。自分の人生なのに、「周りがやれっていうからさ」とどこか周りのせいにしている。挙句「何でわかってくれないの?」と不貞腐れている。生きることは自分の命(時間)を使うことなのに、いつまで自分の幸せに無責任に生きていくんだろう。

「このままのわたしが好き!」「自分は自分でいていいのだな」と思える人を増やす仕事をしたいのか、周りの人が認めてくれる場所にいたいだけなのか?検証するために休学しようと決めた。インターンでインタビューした人の体感3人に1人が休学していて、休学へのハードルが下がっていた、というのもある。このまま社会人になってしまうことが、どうしても怖かった。

とは言っても、休学の選択も同じくらいに怖かった。これまで分かりやすいレールの上を歩いてきた。レールの上を走ったことはないし、戻ったこともない。レールを外れるなんてもってのほかだった。友達に見限られるんじゃないかと思った。一年経っても何も変わらないんじゃないかと思った。結局逃げですよね?と来年の面接で言われることを想像して、すでに泣きたかった。親にもガッカリされるんじゃないかと思った。

でもある日「まあ嫌われても仕方ないわ!」と何かが吹っ切れた。ありきたりな表現だが、初めて自由になれた気がした。別に死にはしないし、死んでもいいと、どこへでも行ける感覚を確かに感じた。親にお願いをして借金をした。今も思い出すと泣けるくらい、ありがたかった。

そこからは、無我夢中だった。みんなの内定報告を聞く中、「自信」「自己肯定感」「多様性」という言葉を漁りまくった。仕事にできないか、せめてヒントはないかと必死だった。ある日、国会図書館で「自信や自己肯定感を育てるためには多様性を認める対話が有効。そのために対話に特化している学校がデンマークにある。」とある文献を見つけた。本ではなく、論文だったと思う。コピーをして持ち帰った。(国会図書館のコピーは人に依頼するため時間がかかるし、めちゃくちゃ高い)

学校を調べ、8月からその学校へ通うことにした。出発まで4ヶ月あったので「対話 ボランティア」で調べて出てきた2つの団体でボランティアをした。忙しく首都圏を飛び回る日々は、自分の力不足に悩んだ日々でもあった。自信をつける仕事をしたいと願いながらも、自分の自信がいちばんなかった。頭では分かっていても、「自分のダメな部分も含めて、自分なんだから。それでいい。」と心では思えなかった。できないところにばかり目を向けて、存在自体がネガティブだった。自分で選択しておきながら、苦しかった。でも、自分で選択していたから、就活の時の苦しさとは別物だった。

休学してから初めて「対話」を経験した。それまでの人生がまるごと、報われることのようだった。人に話を聞いてもらえることがこんなにも幸せなのかと、この経験だけで一生生きていける気さえした。これまで100だと思っていた自分への信頼度は1程度に思えた。自信があるとは言えなかったが、大きすぎる1歩だった。

デンマークでの生活も素晴らしかった。最初の4ヶ月は言語の壁に撃沈し、深海魚の視界よりも暗い世界を生きていた。自信のかけらもなかった。でも対話し、あなたはそのままでいいんだよと言い続けてくれる人がいた。奥深い海底にも、希望はあった。

5ヶ月くらいだろうか。言語が少し操れるようになってからは、自信とは何かについて研究をしているんだよ!とオオホラを吹き、協力を仰いだ。「あなたはあなたのままでいんだよ」と言い続けてくれる人が増えた。言わせていたのかもしれない。

スピーチの授業で、自信について話した。「就活で髪を黒く染めた時、私は死んだ。自分が自分でなくなる気がした。自信を求めてデンマークに来ている。みんなの対話、みんなのおかげで今が楽しいと思えている。」という内容だった。スピーチ後、これまでの授業ではなかったスタンディングオベーションが起こった。「あなたがあなたでいることの選択をしてくれてありがとう」と泣いて抱きしめてくれた人、肩ぐるまをしてくれた人、欧州特有の頬と頬を合わせてキス(音だけのやつ)をしてくれた人もいた。

その時言った、人生初の英語ダジャレを添えておこう。

When I dyed my hair to black, I died.
(就活のために)髪を黒く染めた時、私は死んだ。

ダイがかかってマス

「これが自信か!」と思える経験もした。あるほろ酔いの土曜日。わたしは1人で踊っていた。日本だったら「踊っているなんて変な子」と思われると思ったし、踊るなんて恥ずかしくてできなかった。その日も一瞬「変って思われるかな」と思った。でもすぐに「みんなはわたしのことを好きと言ってくれている、信頼するみんなが好きなわたしってことは、最高なのでは?わたしのすることが何であっても、わたしはわたしだ。もしみんなに嫌われても、わたしはわたしだ。」と思った。

一見すると人の力のようだが、自分で、自分についてOKを出せたのだ。自分のことを抱きしめられた。もちろんビールを片手に、ヘンテコな踊りをした。最高だった。

「ダメな自分も含めて、それがわたし。わたしはわたし。」

とこんなに心の底から自信が湧き出てきたのは、はじめてだった。

休学を決心した時に立てた仮説① 自分が「そのままでいいのよ」と言われるコミュニティにいたいだけ or 自分が「そのままでいいよ」と人に言う仕事をしたいか?の検証結果は、両方だった。仮説②「自分はそのままでいい」と思うためには対話は有効か?の検証結果は、完全にYESだった。

ただ、「自分はそのままでいい」と思える自信は一度得たからと言って、永年無料ではない。下の図のように、徐々に高まっていくものだと思う。だから人間21年目にして初経験のこの感覚は、ひどく脆弱なものだった。

波を繰り返し徐々に、上がっていくもの
(ええ、手書きです。)

8ヶ月の留学を終え帰国した日は、一緒に入学をした友人の卒業式だった。そのまま、流れるように1年ぶりの就職活動が始まった。今度は検証結果もあるし、探す方向は見えていた。はずだった。

正直に言うと、心がポッキリ折れてしまった。就活でデンマークの成果を聞かれ、わたしは真剣に自信の話をした。全然伝わらなかった。「じゃあ、自信はどうしたら得られるんですか?」と聞かれ、言いたいことは山ほどあるのに、80センチ先にいる面接官に届かなかった。自由に操れる日本語なはずなのに、届く前にぽとぽとと目の前に言葉が落ちていった。「結局、人がいないと自信を得られないってことですか?」「それで本当に自信を持っていると言えるんですか?」と言われ、何も返事ができなかった。

なぜ日本の大学では何を勉強したかは聞かないのに、留学して何を勉強しましたかって聞くんだろう。何も分かっていない、誰も分かってくれない。また社会に対して心を閉じてしまって、面接のない会社で何となく働くことにした。

完全に心は閉じ切ったまま、それでもやっぱり、と10月末に就活をし直した。本当は自信を与える仕事をしたかったけれど、方法がわからなかった。デンマークにあるような学校を作りたいと、勇気を出して言ってみたこともあったが「学生に何が教えられるの?別に教わりたくないって思っちゃう」と言われて以降、口に出せなくなった。今思うと「気にすんなよ!!!」って思うけれど、それは今だから思えること。

せめて「あなたは、大丈夫よ。全てわたしが分かっているから」と言える存在になりたいと願った。そのために、人の気持ちがわかる人になりたいと思った。当時わたしが「分かってくれる」と思う人は、わたしより大変な経験を爽やかに経験している人だった。

だから手っ取り早く大変な経験をしたいと考えた。「安定とは大企業に勤めることではありません。安定とは個人的に成長しどこでも働けるようになること!成長とは苦労!うちでは1年目からめちゃくちゃ苦労させます!」と声高らかに言う企業に出会った。名高いブラック企業だったが、仕事を楽しそうにしている人が多く、なによりデンマークの経験を「わかる」と言ってくれた人がいて気に入った。そこで約6年働いた。あの日の説明会のお言葉通り、苦労しまくったし、楽しすぎた。

この6年を語ろうとすると、みんなの携帯の充電が0%になっても足りないので割愛する。辞めたきっかけは、タイミングが重なってだ。でも辞めたかったと言うより、やりたいことに蓋をする限界が来ていた。やっぱりわたしは、誰かの「わたしは、わたしのままでいいんだ」と思える瞬間を、もっと直接的に作る仕事をしたいと思った。

後輩にもらった大学卒業アルバムの「生まれ変わったら誰になりたい?」ランキングで1位を獲った。嬉しかった。少なくとも嫌われているわけではなさそうだと思ったし、楽しそうに見えてるのかな?と。


でも、いまのわたしは「生まれ変わったらわたしがいい!」と思える自分なのだろうか。



そう思うためにも、またデンマークに来た。正直お金を考えると不安になる夜もある。でも、今は明確に「わたしは、わたし」と思える人を増やす仕事をするんだと意気込んでいる。

そのためにはやっぱり、デンマーク人が大切にしている「対話」は有効すぎるのだ。シンプルに対話が好きで、対話の時間を多く持つ人生にしたいというのもある。ただ、対話の価値を信じている。心が満たされるんだもの。

対話は手段でもあるが、目的でもある。対話で満たされたなら、「わたしは、わたし」と思うこともできる。そうなったらシンプルに楽しい。たのしさは主体性を生む。主体性は、自分を人生の主人公にする。「生まれ変わってもわたしがいい」と思える。

ようやく、世の中に怒っている場合ではなくなる。

**
「あのときが、一番楽しかったよね」「あのとき、めっちゃ青春だったよね」と友達と話す。もう戻れない瞬間に馳せて、当時の蒼さや全力さを愛でることが、大好きだ。過去のおかげで今があるし、みんなも同じ気持ちを持っていることを共有できることに幸せを感じる。

同時に、これから先の人生、それ以上の輝きがないとおもうことは怖い。あのときが一番ということは、これからは下り坂ということ?あのときの楽しさを更新することなく、生きていくということ?たしかにあのときには戻れない。それでいい。

でもわたしはまだ、わたしの人生を諦めたくない。


あなたも、本当は大切にしたいことを、
大きな声で大切だと言っていいとおもう。

これまでも、充分がんばってきた。

いままでのことも、これからのことも
ぜったい、大丈夫。


あなたもわたしも、主演女優賞(男優賞)。
「生まれ変わっても、わたしの人生がいい」

と、関わる人の幸に携われますように。

以上、対話を中心に自分と向き合うアオハルホイスコーレ(オンラインコミュニティ)開校の産声でした。

ここまでたどり着いてくれた方、ありがとうございます。

わたしには空耳で聞こえている祝福の鐘をBGMに
愛を持って、心よりお礼申し上げます。

お返しの愛は無限大、一緒に幸せに貪欲になりましょうね!!