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「妊娠した身体」の1ヶ月体験版があるとしたら

コウキが倒れこんできた時にわかった。今回はなにか違うと。
天井をみたまま計算すると、今日が排卵日。

「大丈夫かな、アフターピル飲もうかな」

「アフターピルって何?」

「セックスのあと72時間以内に飲むことで着床を防げる薬。早めに飲むほうが避妊確率が上がる。15000円くらい」

「一応いつも通り避妊はしてたけど、心配なら飲みな。お金は出すよ」

「うん」とか何とかいって、コウキの腕のつけねに頬を置いて目を閉じる。
わたしたちは、夜のうちにホテルをチェックアウトする。夜中に響くフロントの噴水の音。全てが眠るなか、そこだけが起きてわたしたちを見ていた。


72時間というのは、24時間×3日。3日のうちに逡巡する。もしこの勘があたって妊娠していたら。

わたしは、妊娠や出産をしたくない。なぜって損だからだ。体調が悪くなる。体型が崩れる。キャリアも停滞する。ひとりでがんばらなくちゃいけないシーンは絶対にあるから、パートナーを憎みそうでいやだ。

子供は育ててみたいから、養子をとろうと思っていた。ふたりで手続きをして。

「産みたくないのに育ててみたいなんて無責任な」といわれるんだろうか。
「男の人だってそうじゃん、産まずして子供がもてる」「でも男の人は、産みたい/産みたくないじゃなくて 産めないんだよ」

肉体的に産めないことと、精神的に産めないことに何の差があるんだろう。何の差って、肉体と精神。いや、それ以外に。



「でもやっぱり子供を産むってすばらしいことだよ、やってみたらわかる」
「全然想像つかなかったけど、いざ妊娠してみたら、産みたいって思った。そういうものだよ」

ふうん。じゃあもしわたしが妊娠して、そう思えなかったら、どうしてくれるの。言いたいことだけ言って、責任なんて取れっこないじゃん。命は不可逆なんだよ。生まれるまえには戻れないんだよ。



………「生まれるまえ」ってどこだろう。
どこが「生まれる」なの? 何をもって「命がない→ある」なの?

医学的には/哲学的には/道徳的には。
わたしはなにで判断する?

意識のあるものが殺される時、かわいそうだと思う。受精卵が殺されることより、エビの踊り食いのほうがずっとかわいそうで、こわい。エビには意識があるのか、受精卵には意識がないのか、なったことないからわからないけど。(いや、受精卵にはなったことあった)

意識のありそうなもの=命があるもの?
ぬいぐるみには命があるのかな。

さておき、気づきがあった。わたしは受精卵をなかったことにするのに対して、そこまで抵抗がない。そう仮定しよう。


じゃあ、できるってことだ。妊娠を少しだけ体験して、なかったことにすることが。気がついてしまった。妊娠出産をしたことのある人に怒られそうだけど。

わたしの体で起きてることに、他人が怒るのって不思議だよな。やっぱり子供、あたらしい生命というのは、わたしのものではなく、全体のためのものなんだろうな。体に変化があるのはわたしだけど、そのわたしも世界に属していて、わたしが産むことは世界のためで、ということは産む産まないの倫理観は世界のもので、それはあたりまえの共通認識だと思っているんだろうな。産むことは肯定されるべきこと、のっぴきならない理由がある以外の堕胎は悪。なんだかんだ言ってほとんどの人が出生主義的なんだな。


猶予である72時間が過ぎた。





幸い(?)出どころ不明の人とはセックスしないようにしているので、コウキのプロフィールは詳細までわかっていた。K大学卒、Mという会社を立ち上げ、隠しているけど本当は奥さんがいる。堕胎の費用など、出してと言えば出してくれるだろう。

うかつだなあ。タダでセックスができて、得したと思っているんだろうな。世の中にはこういう女もいるんだって、知らないんだろうな。これで黙って産んだりしたらどうなるんだろう。自分の知らないところに子孫が残っていく。こわ。いや、うれしいのかな。




下腹部がなんとなく重だるい日が続いて、2週間してもやっぱりセイリはこなかった。さすがにいざとなると、ことの重大さに愕然とするかと思ったが、しなかった。数日して、妊娠検査薬で陽性反応が出ることを確認した。この後に及んでも動揺してなくて、「仮定」がわたしにとって正しいと知る。

コウキになんて連絡しようかな。妊娠検査薬の写真撮ってSNSにアップする人ってやっぱり謎だな。尿をかけた棒を全世界に公開。


案外なるようになるとしか思えず、これが寄生された生きものの気持ちか、と思う。(寄生された生きものは時々意識まで乗っ取られる)もうわたしは、わたしのために生きているのではなく、わたしのために生きているつもりでも子のために生きているのかもしれない。

が、しかしこのような形で生を受けて幸せなはずがないので、堕胎する。
コウキにあらかじめ調べておいた病院と費用12万円を伝える。コウキはわたしのことをいわゆる一般的な考えをもったかわいい女の子だと思っているので狼狽している。


堕胎のシーンを想像する。銀色のプレートの上に乗せられたさばかれるまえの魚みたいだなと思う。滑稽だ。寄生された生きものもさばかれるまえの魚も。自分じゃどうすることもできないなんて。

今までだって、自分じゃどうにもできないこと、いっぱいあったはずなのにね。内実は違うのに、自分の意思で生きてきたつもりになっている二十数年間。

ああ、はじめてセイリがきた時も同じように思った。制御できないものが始まったと。それが始まったら、ただ股から血を流すことしかできないのだ。失望した。幼稚園の時にトイレトレーニングして、おむつ外したじゃん。またおむつをするのかよ。ださ。

この制御できなさを恐れるあまり、できないことがいっぱいあった。お酒を飲んで酔っ払うこととか、まぶたの裏を糸で留めることとか、鼻筋にシリコンを入れることとか。

その一方で憧れていた。制御できない大きな流れによりかかってしまえることに。時が来たら案外簡単にそれを受け入れられたらいいのに。

だから試したかった。案外簡単によりかかれるじゃんって思いたかった。そうすればきっと楽になれた。我や個をなくして、全体として生きてみることにずっと興味と憧れがあった。

「産みたくないけど、子供はほしい。養子をとりたい」と決めているはずなのに、まだ期待しているんだ。



今回の実験には穴があって、それは相手がコウキであり、好きな人ではないこと。このような形で生を受けて幸せなはずがないという条件下であること。

でも裏を返せば、条件さえ揃えれば、産めるのかもしれない。「案外、なるようになるとしか思えず」だったのだから。


全部わたしのなかで起きたことで、手術が終わったら、コウキ以外、いやコウキだって元に戻ったと思うんだろう。でも何も変わらなかったように見えて、変わったことはあったよ。今日から、全体にアクセスしうるわたしになった。

帰りにコウキは、何か買ってくれるという。
細かいところまで気がつかず、あとになってからお金で解決するコウキ。今までずっとそうしてきたんだろう。
ばかだなと思う。わたしだってばかだけど。
あのランプにしよう。ひと月まえに表参道で見た、噴水がモチーフのきれいなランプ。

名前を呼ばれて、わたしは診察室へと向かう。

※この記事はフィクション。

急に雨が降ってきた時の、傘を買うお金にします。 もうちょっとがんばらなきゃいけない日の、ココア代にします。