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涙と言葉のチキンレース

今日、入社した頃からお世話になっていた先輩が
会社を辞めると聞いた。
横で泣いている後輩を見て、
ふと無意識に
私の人生は彼女に負けていると思った。

以前美味しい顔をするのが苦手だと言った私だが、
例にも漏れず、感動や喜びを表現するのが苦手である。
怒りや悔しさではすぐ泣けるのに、
悲しさでは涙が出てこない。
喜びを大きい声で伝えられない。
感情を丸出しにする事が、恥ずかしいのである。



大人とはそういうものだろうか。
はたまたこれを「捻くれている」という人もいるだろうか。
私は心から悲しいし嬉しい。
それを伝えるのが極端に下手なのだ。
泣けないのは他者への興味が薄いわけではなく、人格が破綻している訳でも無い。
感情を叫ぶには、余りにも自分が邪魔をする。

感情に瞬発力がある人は、
これまでの人生に隔たりが少なかったのでは無いだろうかと思う。
一生懸命生きることを邪魔されなかった人だ。

後輩は悲しいと思って瞬発的に涙を出せる。
他者にどう思われるか、
相手にどうするのが最善なのか考える暇もなく、
ただひたすらに素直なのだ。
彼女はきっと、これまでも許容されて生きてきたのだ。

私はその涙を見て、
この人の純粋な性格を形成した家庭環境、
即ちバックボーンにまで思いを馳せ、
心から羨ましいと思った。

私のような種類の人間には、
悲しみや悔しさを認めた時点で『負け』る場面がある。
それは他者に「やーい!泣いてやんのー!」と言われる負けではなく、自分の弱い部分をポキっと折られるような瞬間だ。
他者に感じ取られている自分が恥ずかしいだけの『負け』だ。

いつからだろう、自分の感情を100%でさらけ出すことが出来なくなってしまったようだ。


心から悲しんでくれる人、
共に喜んでくれる人の方が、
豊かな人間に決まっている。
それくらいは、この歳になると分かる。
だけど私にはもう、瞬発力も無ければ悲しみ方も分からない。

事実私は悲しいより寂しいより「こういう時、なんて言うのが正解??」と思ってしまう。
表情、バランス、相手に興味があると分かってもらうための言葉、共感している演技。
私の心は瞬間、そちらに傾いてしまうのである。

演技。
大人になるにつれて、
多少の演技は身に付けた。
「え!そうなんですか?!」くらいは言えるようにもなった。
だけど私の驚きは、フィルターを通さずに純度100%で伝えることは出来ないだろう。
口に発する時点で私は、
感情より先に考えた『無難な言葉』を選別してしまった後なのだ。

会社の帰り道、
先輩が来なくなる未来を想像して心がズキズキと痛む。
帰宅してからも、特に用事のないベランダでボンヤリと暗いだけの空を見つめる。
こんなに長時間も悲しみを持続する気力はあるのに、
何故あの時本人に、わざとらしい「寂しいです」しか言えなかったのだろう。

だけどこの寂しさは、本人に伝わる事がない。
その時点で私はあの後輩に、負けたのである。



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