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いっそ「美味しい」を鍋に煮詰めてみようか


「君は本当に、おいしそうにご飯を食べないね」

彼は鼻の頭をかきながら、つまらなそうに私に言ったものである。
実際私は美味しそうにご飯を食べるのが苦手だ。
テレビでよく見るタレントの「んー美味しい!」が
出来ないのだ。
「美味しい」という感情が頭の中で立ち止まり、それ以上表に立つことがない。
だから私は真顔で美味しい物を食べてしまうのだ。

「彼」とは以前付き合っていた恋人のことなのだが、
この言葉は大変頻繁に言われていた。
彼にとって美味しそうにご飯を食べない私は、
さぞかし残念だったのだろう。
「えー、そうかな?」とヘラヘラ笑っていたけれど、
可愛げのない自分を、実は少し引きずっていた。

今でも私は1週間に1度のペースで、
食べるのに飽きる。

食に執着が無いというか、お腹は空くけど何も食べたく無い。
何を食べるか考えたくも無い、という日があって、
そういう時私は間違いなく
「胃袋を満たす為」だけに何かを食す。
欲求では無く自分の身体のためだけに食べているという点では
『食欲が無い』と言っても過言では無い。

美味しそうにご飯を食べられないのは、
私自身に食への執着が無いからだろう。

誤解しないで欲しいが、「美味しいものを食べたい」欲はあるし
「食へのこだわり」はある。
昔からただ3食きっちり食べるほど、食への興味が無いというだけである。

友人は「食べ物の写真を撮ってたまに見返したりする」と言っていたけれど、
私は写真を撮る意義をあまり感じられずにいる。
見返すほどの興味が無いのである。
ただ旅館や特別な日に食べたものを写真に残したくなるのは、
『その日の思い出に興味がある』からだと思う。


確かに昔から食への欲求が少なかった。
幼少期、低血糖で倒れて運ばれたのは代表的な例で、
ご飯を食べないから怒られたという思い出は小学生になっても続いている。
それから私は小学4年生の時、先生との折り合いが合わずに給食が食べられなくなる事件まで勃発してしまっているので、
人生において食への苦い思い出は数多といえるだろう。
母は大変苦労したに違いない。
だけどもその反面、私は誰にも分かって貰えない気持ちにモヤモヤとしていたのだ。

人間の基本的欲求だというのに、
私は何故こんなにも足りないのだろう。

先に述べた調子で、その気持ちは今も続いている。
だけども一人暮らしを始めて自炊をするようになって、
食がどれだけ今までの人生と切り離せない存在なのか、
「美味しい」が人間同士の重要なコミュニケーションツールであるということが、
ようやく身に染みて分かるようになった。

外食を続けるとなんだかしんどくなってしまうのは、
母親が毎日自炊してくれていたからである。
これは私の人生を形成してきた栄養面が私のだらし無さを奮い立たせ、
お陰で少しでも自炊しようと思えるのだ。
そうでなければ、私は躊躇なく安くて早く食べられる物を
口に放り込んでいたことだろう。

それから、例え美味しい顔が出来なくても
「美味しい」という言葉はとても大事だということ。

自炊をするようになって酷く実感したのだが、
「美味しい」と言われることはとても嬉しい。
「美味しい」と共感することは、とても楽しいということだ。
食という、人類の共通分野が私たちのコミュニケーションツールとなっている。
そりゃあみんなで同じものを食べて美味しいと言った方が、
話も盛り上がるに決まっているのだ。

さてさて、昔の私はちゃんと「美味しい」と言っていただろうか。
ただ当たり前に美味しいものを食べていたのでは無いだろうか。
今でも美味しい顔をするのは苦手だが、
美味しいものを「美味しい」ということは
前よりずっと心掛けている。


※これは最近思わず撮った、
好きな人と食べたカレー。

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