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アルコール度数19%


お酒を少し頂けませんか?

耳を疑った。
終電間際、人の通りも少ない駅のホーム。
幾つもある柱の1つに支えられている彼女は、
初対面の僕にお酒を要求した。
顔色が悪い。
お酒など持っていなかったので
自販機で水を買って差し出すと、
彼女はゆっくりと首を横に振った。

「水は嫌い」

『じゃあずっとそうしておけば良い』

本当はそう言いたかったが、
顔色が益々悪くなっていくので、
僕は何も言わずに離れると、ホームの清掃をしている駅員を呼んだ。
人として、それくらいはするべきである。

駅員に事情を伝えると、
「ああ」と一言呟いて、何処かへ消えて行った。
彼女を置いてけぼりにするのも気が引けて
少し離れたところで右往左往していると、
駅員は紙コップに何かを入れて戻ってきた。

僕の側を横切る。
酒だった。


「あなたね、自分でなんとかしてくださいよ」

駅員は冷たく言葉を放つ。

「だって、この鞄に入らないんだもの」

項垂れながら持っているのは小さなショルダーバッグだった。
確かにあのサイズでは、
折り畳み財布とハンカチくらいしか入らない。
随分とワガママそうな彼女は、
紙コップに入った酒をグビグビと飲み干すと
小さな声で「ふぅ」と呟く。

駅員は紙コップを回収すると、
「0時半にはホームを閉めますからね」
そう言って去って行った。

やりとりを見るだけでも分かる。
常習犯だ。
膝丈のスカートなど気にせず床に座り込んだ彼女は、
最早介抱する必要も無さそうだった。
仕事で疲れ切っていた僕は、
その夜の事をすっかり忘れて早々に日常へ戻った。


次に彼女に会ったのは休日の昼間で、
それは電車のホームでも無ければ
まるでアルコール中毒の、厄介な女という風でも無かった。

公園で、彼女はワイヤレスイヤホンを付けて
ダンスの練習をしているところだった。
スポーティなショートパンツを履いて、
身軽に身体を動かしていた。

無論僕はその女を
『公園でダンスしている人』という認識しかしていなかった。
まだ幼稚園に入ったばかりの娘を連れて
シャボン玉を吹いている時、
彼女はズカズカと近付いてきたのだ。

「この間はどうもありがとう」

声を、顔を認識して、
頭の中に入っている知り合いリストを漁る。
彼女の名前は、無い。

「ほら、駅のホームで」

「…ああ」

そこまで聞いて、漸くうっすらとした記憶が蘇った。

「よく覚えていましたね」

あれだけ具合の悪そうだった彼女が、
僕の顔をしっかりと覚えているのは、
不思議を通り越した恐怖さえあった。
更に娘のいる前で声を掛けられると、下心が無くても困惑する。

「記憶力がいいの。貴方が思うよりも何倍も」

彼女の瞳に、僕が映っていた。
澄んだ茶色の瞳。
これだけ目の澄んだ人には、会ったことが無いような。
それともこれだけ見つめ合うことが無いのだろうか。
彼女は僕から少しも目を逸らさなかった。

長い髪を縛って動きやすくしている。
日差しが差して幾らか暑かったが、汗はかいていなかった。

初めて会った時よりも清潔感は感じられるが、
生意気さはあの時のままである。
年齢だって、僕よりひと回りは下の筈だ。

彼女はトートバッグから薄茶色の瓶を取り出すと、
影で黒色に映る液体を飲んだ。
酒だ。

それから彼女はまた音楽機器を再生すると、
変わらぬしなやかさで踊り出す。

そのダンスだけは、
つい見惚れてしまう程綺麗だった。
まるで角度やタイミングを完璧に計算し尽くしたかのように
堂々と踊り続ける。

そう思うのは僕だけでは無いようで、
周りの人々は遠くから、やがて近寄って鑑賞し始めた。
彼女はその視線を、恐れない。

「パパ」

娘が、僕に近付いてきて我に返った。

「シャボン玉、もう一回」

シャボン玉を吹く。
娘はそのシャボン玉を追いかけながら、
無垢な笑顔ではしゃいでいる。
その少し離れた場所で踊る彼女は、
シャボン玉のせいで更に美しく見えた。

パフォーマンスだと思ったのか、
思わずお札を持って近付いた中年男性に
彼女は手を横に振って断った。

「お金はいらないの。お酒を頂戴。
私はお酒があれば生きていけるのよ」

その言葉に、若くてやんちゃそうな男性が
笑いながら缶ビールを渡した。
彼女は一気に飲み干す。
最早、見せつけているかのようでもあった。
彼女は顔色1つ変えずにケロっとしている。
若い男性のグループは各々歓声を上げた。
少し危なっかしい行動に、
良質な中年男性は離れて行く。

僕も、そちら側の中年男性の筈だった。
それなのに、その姿に見惚れてしまった。
思わず手が止まり、娘は服の袖を引っ張って催促する。

僕は罪悪感と共に、その場を離れた。

彼女はそれきり公園には現れなかった。
それなのに、僕の頭にはずっと彼女の顔が焼き付いていた。
再び彼女に会えるのを楽しみにしていた。
ひと回りも年下の、彼女を。

彼女の名前すら知らない。
ただ時々、夢に現れる。
酒を飲んで、踊るだけの夢。
僕と彼女の間には、透明なガラスがある。
僕はただ酒を片手に、彼女を見つめるだけだった。

それでもだんだんと熱は冷めて、再び会う事は望んでいなかった。
僕には家族があって現実があって、幻の彼女に酔いしれる暇など
少しも無かったのだ。

だから、彼女に声を掛けられても
記憶と結びつくまでに少しの時間があったのは仕方が無かった。


「こんばんは」

僕は仕事終わり既に最寄駅を降りて、
自宅に向かっている途中だった。
いつも終電ギリギリに帰る道に人なんていない。
遠目で人がしゃがみ込んでいるのを見つけたときは
一瞬後退りかけた。
しかし、その後生まれたのは驚きと再び沸騰した高揚感であった。
間違いない、彼女だ。

「お酒、頂けないかしら」

彼女はあの時と同じように項垂れている。
顔色も随分と悪い。
ロングスカートを履いているせいか、
なんだか初めて会った時よりも知的に見えた。

「君はどうしていつも酒ばかり飲むんだ。
だから具合が悪くなるんじゃ無いか」

「私はお酒で生きているんだもの」

僕は暫く彼女を見つめて、それから頷いた。
酒を買いに行こう。
彼女と話すきっかけになる。
僕は歩いて3分程のコンビニに入った。

茶色い瓶の酒を買う。
彼女が公園で飲んでいたやつだ。
小さくて、度数の強い酒。
僕はもう一本、アルコールの弱い缶酎ハイを買った。

「買ってきたぞ」
袋から瓶を取り出しながら、彼女に話しかける。
彼女は座り込んで待っていた。

「元気になったら、お礼にダンスの1曲くらい見せてくれよ」

瓶を彼女に差し出す。
彼女は項垂れたまま、返事をしなかった。
寝ているのかと思い、少し肩を叩いた。
彼女は動かなかった。

「おい、こんなところで寝るなよ」

掌で彼女の顔を持ち上げるが、彼女は目を瞑ったまま微動だにしない。
指先が震えた。
彼女の顔は最早血が巡っておらず、肌の柔らかさを感じられなかった。
呼吸の確認をしようと鼻先に指を近付けた時、
僕の耳に、ある小さな音が響いた。
彼女の持ち物からだ。
音の正体を探ると、心臓付近でその音は大きく鳴っていた。

ピー、ピー、ピー。
ジジジジジ。

僕からは聞こえない、無数の小さな音。
止め処なく聞こえる音に、漸く気がついた。
彼女の心臓の音だ。

彼女は酒で生きている。
水は嫌い。
酒は生きる為に、飲んでいる。


僕は彼女の左手に、そっと酒の瓶を持たせた。
隣に座って酎ハイを開けると、
僕はそのままグビグビと呑み続けた。

「また会えたら、その時に乾杯しよう」

その日から彼女は夢に現れることが無く、
その代わり、僕の記憶から消えることも無かった。



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