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002 ラフィク・シャミ『夜と朝のあいだの旅』

昔、小学生だった私をシリア・ダマスクスの魔術的な街並みに連れ出してくれたのは、シリア生まれのドイツ人作家ラフィク・シャミによる『夜の語り部』という本でした。
その後私は、実家にこの本を残したまま上京してしまい、長い間再び手に取ることがありませんでしたが、少し前に古本屋でラフィク・シャミという名前を見かけたとき、懐かしい気持ちでついそのまま買って帰ってしまいました。それが、今回ご紹介する本『夜と朝のあいだの旅』です。ちょうど夜から朝に移り替わろうとする空の色のような、深い青のグラデーションに刷られた表紙を開くと、長くてユニークな章題が、目次にずらりと並んでいます。
そこからまたページを繰ると、物語はこんな風に始まります。

一通の手紙にこれほど驚かされるとは、サーカス団長のヴァレンティン・サマーニもついぞ考えていなかっただろう。オーストラリアをツアー中の箱馬車の中で産声をあげてから、アラビア発の信じられないような手紙を受け取るその日まで、旅した国はもう四十。四人の王さまの前で芸を披露し、七人の大統領と食事をともにして、三つの監獄で手品を演じてみせた。そんな六十男にとっても、それはなかなかの便りだった。

これまで四十の国を旅し、四人の王さまに芸を披露したサーカス団長ヴァレンティン・サマーニ。どこか、童話や絵本にでも出てきそうな主人公です。
ところが続きを読み進めると、彼のサーカスは二年前に火災で設備が焼け落ちてしまったことが分かります。炎の中、サーカスで飼っていた動物たちが焼け死んでしまうのを、なすすべなく見守ったその一年後には、妻ヴィクトリアも亡くしてしまいます。そうして悲しい出来事を多く経たヴァレンティンは、以前よりも年寄りらしくなるのでした。
ところがそんなある夜、彼は不思議な夢を見ます。亡くなった妻が以前の若く美しい姿で現れ、ヴァレンティンに若返るよう言うのです。そして妻の姿は次第に、郵便配達人の女性ピアの姿に変わっていきます。そして彼女にキスをしたところで目を覚ますと、まさにそのピア嬢が、この「アラビア発の信じられないような手紙」を届けに来るのでした。

さて、この手紙は、ヴァレンティンの祖母、アリア・バルダーニの生家がある、ウラニアというオリエント地方の都市からのものでした。奇妙な宛先を目当てに届けられたこの手紙の主は、少年時代のヴァレンティンの親友であり、今は建築士として富と地位を得た、名士ナビル・シャヒンという男でした。
彼は手紙で、自分が癌を患っていることを告白します。そしてその余命が長くてあと一年と宣告された今、彼は少年時代にヴァレンティンの家であるサーカスに出入りし、その秘密を味わったことを懐かしむようになったというのです。そしてなんと、自分の住むオリエント地方にヴァレンティンのサマーニ・サーカスを呼び寄せ、その興行と共に自分も旅をして人生の残りを過ごしたいのだと。また、興行やオリエントへの旅にかかる費用も、自分が全て出すというのでした。
この時、ヴァレンティンと彼のサーカス団の面々は、火災やサーカスの業績不振で先行きも見えなかった状況でした。彼らはこの知らせに胸を躍らせ、危険な船旅を経ながらもオリエントへと旅立ちます。そして行く先々で様々な事件が起こる中、興行の旅をして回る―――。

話の筋立てはこのようなもので、一見ご都合主義めいたきっかけから、ナビルを加えたサーカスの、ユーモアを交えた冒険譚が語られます。
けれど、この本はこの隣に、もう一つ(あるいはもっとたくさん)の物語を持っています。
それは、ナビルとヴァレンティンの二人にとって特別な時間である「ナッハモルグ」の物語です。この言葉は、ドイツ語のNacht(夜)とMorgen(朝)からナビルが作り出した造語ですが、夜から朝へ移ろっていく間のことを指しています。この二人の親友は、この時間を、ヴァレンティンの母親ツィカとその愛人であった理髪師タレクの間の、一途で激しい愛情の記憶を紐解く時間として過ごすようになります。
そしてこれが、サーカスの冒険の、おとぎ話のような雰囲気とはまた異なる、この本の別の一面です。

ヴァレンティンは子供のころから本を愛していました。そうして本を読むうちに、彼は自分でも物語を一つ書きたいと思うようになります。そしてその物語は、非常に感動的で激しい愛について語るものでなければならない、とも。
そんな中、母親が祖父から執筆を引き継いでいたサーカスの年代記、そして、屋根裏にひっそり隠されていた母親自身の日記から、自分の本当の出自、そして自分が書くべき物語を知ります。
それはこんなものでした。
ツィカはサーカスの綱渡り師であり団長の妻でしたが、六十年前の冬の日、ある事情でドイツへ亡命してきたアラビア人理髪師タレクと恋に落ちることになります。しかしやがて、タレクは故郷であるウラニアへと帰ってしまい、二人は分かれ分かれになってしまうのです。タレクは帰郷後妻子を持ちますが、興行でウラニアを訪れたツィカと再び出会い、その後二人は、サーカスがドイツへ帰ってしまった後も、死ぬまでカフェの電話を通しての交流を続けたというのです。
けれども、この物語を書くにあたって、ヴァレンティンには知りたくても知ることのできない側面がありました。それがウラニアで過ごしていたタレクの生活だったのです。
ところがそれを知る機会を、ナビルの手紙が思いがけずもたらしてくれたのでした。

この二つの物語は、時に交じり合いながら、それぞれとても充実した語り口で語られます。そしてその全ての場面に、ラフィク・シャミ独特の温かい冗談がちりばめられています。そしてそれが、私の読んだ本の中でも特に詩的な美しさのあるユーモアのように感じるのです。
この質感の新しさがどこから生まれているのか、時々考えることがあります。そしてそれは、いつも少しだけおとぎ話の世界に住んでいる人々から発せられる言葉だからではないかと思い当たりました。飛べなくなったツバメを、特別な呪文で再び飛べるようにしてやれるおじいさんの話が、ご近所の噂話と同じくらいの信ぴょう性をもって語られる、そういう空気感が、そこに現れているように思います。

そしてもう一つ。ラフィク・シャミの故郷であるシリアは、今も内戦が続いている地域です。そんな故郷の姿を、彼が亡命先であるドイツという異郷の地から、深い悲しみと不安をもって見つめている視点も、この本には存在します。物語終盤に向かって濃厚さを増すこの要素は、以前読んだ『夜の語り部』では感じられなかったものでした。そしてこの本の後に書き上げた、三巻からなる長編大河小説『愛の裏側は闇』では、もう以前のおとぎ話の世界はほとんど見られません。
彼自身が心から切実に訴えたかったことに、少しずつ近づいていく一つの作品として、今後も大事に読んでいきたいと思った本でした。


ラフィク・シャミ(Rafik Schami、1946年6月23日 - )
シリア出身のドイツ語作家。『千夜一夜物語』の伝統を受け継ぐような語りの魅力を持つ童話風の作品を多数発表しており、物語の多くは故郷ダマスカス周辺が舞台になっている。代表的な著作に『蝿の乳しぼり』『夜の語り部』『愛の裏側は闇』など。作品はしばしばベストセラーになっており20言語以上の翻訳がある。本名はSuheil Faḍelであり、筆名の「ラフィク」は「仲間・友人」、「シャミ」は「ダマスクス人」の意。(Wikipediaより)

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