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23-4 梅すだれ 肥後の国

 庄衛門はいなくなったが庄衛門の叫んだ「許せるものか!」は部屋に残っていた。この言葉は「許しなさい」と言ったお菊が心の中で叫んだ言葉でもあった。
 この十五年間、お菊は魚醤屋のみんなを殺したおかみを恨んでいた。(キリシタンというだけでなぜ殺されなければならんとか!)その理不尽さを考えるとお菊の心は引きちぎられるような痛みに襲われた。そんな時に聞こえてくるのは奥様の「許しなさい」であった。奥様の声が聞こえるたびに「許せるものか!」とお菊の心は震えた。しかし奥様の声は恨みに悶えるお菊をなだめるように何度も繰り返し聞こえてくるのだ。その声を聞いていると奥様は自分が殺されたことさえも許してしまうのだと思い知らされて、涙を流しながら「はい、奥様」と生前の奥様に返事をしていたように声を出して、許すことに励んできた。
 そんなお菊を苦しめたのは、お菊の嫁ぎ先である豆腐屋が熊本のお殿様御用達の豆腐屋であることであった。客はみな武家人たち。お菊にとってはまさに宿敵のために豆腐を作る毎日なのだから、仇を考えずにはいられない。体をしびれさせる草を煮出して、その汁を豆腐に混ぜて殿様を殺すことを想像することもあった。しかし、そんな空想を楽しむお菊に必ず奥様のあの声が聞こえてくるのだ。
「許しなさい。お菊、しでかしたすべてを許すのですよ」
 その声は腹の奥に眠る「許せるものか!」という恨みの気持ちを引き出してくる。この怨恨を打ち消すために、目をぎゅっとつぶり顔をつぶして「はい、奥様」と返事をしてこらえるお菊であった。
 女児を産み子育てをしていると、坊ちゃんを背負ってあやした魚醤屋での日々を思い出すことも多くて、娘を抱きながら涙することもあった。しかし次第に恨む気持ちに無理矢理でも蓋をして許そうと思えば思うほどに、庄衛門が出世をしていくことに気づいた。
 類まれな算術の才能で御船の干物屋を熊本にまで拡大させた庄衛門。きっと将来は干物屋の娘をもらって熊本の干物屋を任されるに違いないと、お菊はお上への復讐ではなくて庄衛門の未来を想像して楽しむようになった。そんな折に庄衛門から知らされた驚きの真実に、お菊の心はまた「許せるものか!」と叫び始めたのだった。

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