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宗教的体験、神秘体験、無意識、内なる意識の影響。良きにつけ悪しきにつけ。

オカルトのフィクションっぽいものを含みます。根拠薄弱な長文与太話なので聞き流すか、backして下さい。ただの私の妄想です。

私は瞑想は良いものだと思います。社会的にも認知されてきましたし、個人的にも瞑想の効果について思うことがあります。

私の瞑想実践は「内なる意識」というものに最大の焦点が当たっています。
様々な瞑想法がある中で、心を落ち着けて意識の内に向かうシンプルな瞑想を「基本的な瞑想」として何よりも重視しているのも、そのためです。

このnoteにおいては、内なる意識の厳密な細かい定義はまだ無くて、無意識、潜在意識と呼ばれるものと同じような意味とすることがありますし、宗教的体験や神秘的体験によって経験するのも、臨死体験や変性意識状態などによって経験するのも、今のところはとりあえずは内なる意識とすることもあります。

この「瞑想する人」noteにおいては、安定した瞑想状態(瞑想態)によって生じる意識という意味であることが多いです。

自らの瞑想実践していくなかで、この内なる意識についていろいろと思うことが生じるとしばしばnoteにしています。

今回もこのテーマで与太話を。

内なる意識の影響 ―― 「隠遁者」「預言者」「導かれる人」

瞑想などによる内なる意識との度重なる交流によって、その影響力を継続的に受けたり、宗教的体験をすると、時には ある傾向が瞑想者の人間性に生じてくることもあるかもしれません。

生じてくる傾向の中には「隠遁者」「預言者」「導かれる人」といったものが含まれると思っています。

隠遁者というのは、現実社会の煩わしさに背を向けて内なる意識の探求に没頭したいという傾向です。
瞑想などによって自分のまだよく分かって意識領域に触れ、強い興味と探求心が生じ、現実的なことに価値を置かなくなっていくのです。必ずしも孤独になるというわけではないです。

内なる意識の体験が魅力的なので、現実的な事柄が色あせてくるように感じるのです。
1、2週間のリトリート(隠遁)をたまにするくらいなら問題ないと思います。
しかし、人の人生それぞれですが、若い時期からこういった傾向が強く生じると、いろいろと問題が生じるかもしれません。

晩年ならば、周囲から理解を得られて社会的にも準備がなされた上で、隠遁的瞑想に惹かれるのは、特に極端でなければ、選択肢の1つとしてはあり得るのかもしれません。
社会と完全に切り離されるのではなくて、つながりを保ったまま、こういった瞑想に重点を置いた生活を送るという過ごし方もあり得るのかもしれません。

預言者というのは、内なる意識の体験やそれから得たこと、インスピレーションを表現しようとする傾向です。
絵画、音楽、舞踏、詩や文学作品などアート、文芸を通して表現したり、思想・哲学として著してみたり、政治思想や生き方と結びつけて提唱してみたりです。
もちろんブログなどで気軽に考えを述べるのもこれに含まれます。

これは瞑想を継続的に実践する人などに頻繁に見られる傾向なのではないでしょうか?

日本では近代でも政治家、軍人など様々な人達が禅を実践しました。
平塚らいてう
も禅を嗜み、見性体験まであったようで、彼女の思想・行動にも影響があったとされています。
らいてう にも預言者という傾向があらわれていたと考えることもできるでしょう。

瞑想などによって自らの内面に向くと、以前とは違った感性、思考、知識に気づくことがあります。
それを表現してみたいというのは、人としての自然な欲求なのかもしれません。

私はうつ不安から瞑想によって回復して、「瞑想って凄い」と感じ、実践と考察から得たものをnoteに著しています。
これも「預言者」という傾向かと思います。

導かれる人というのは、内なる意識から得たものを表現しようという点では「預言者」と同様ですが、もっと強烈さ、極端さがあります。宗教的、スピリチュアルな傾向が強く生じる時もあります。

内なる意識を高次の存在、まるで「」ように考え、それに仕え、その意思、栄光、力が地上に顕現するための経路として自らを捧げようとするような傾向です。

しばしば「神(高次の存在)から与えられた宗教的(スピリチュアル)な使命」を感じ、自らを、人生を、その遂行に捧げようとすることがあります。

これは内なる意識にはトランスパーソナルな性質があると、それに触れた人の中には感じられることがあるためでしょう。
内なる意識の体験がとても偉大で高次なことと感じられ、それから得られるインスピレーションがまるで天啓のように感じられるのです。

その神、高次の意識と呼んでも良いと感じるものとつながり、その顕現の経路として自らを捧げようとする傾向です。
これは宗教的体験や「回心」の体験をした人に見られることもあるのではないでしょうか。

古代ローマのヌマ、エジプトのアメンホテプ4世

さて内なる意識の影響を受け、それを表現しようとすることの、その影響の中にはポジティブなものがあると思います。
ひょっとすると内なる意識というのは、人間の意識の本質に関係するかもしれず、何らかの好影響を個人や社会に与えることもあるかもしれません。

一方で、内なる意識からインスピレーションを受けたからといって、必ずしも良いものをもたらすとは限らないのではとも思います。悪影響もあると思います。

まぁ何であれ、内からやってくるものの声に耳を傾ける人が、社会的地位が高かったりなどで力のある場合には、その影響が大きなものになることは考えられるでしょう。

古代ローマの王政時代、2代目の王にヌマ・ポンピリウスという人物がいました。
紀元前で、古代ローマ初期で史料がほとんどないので伝説上の人物とされることがあります。

質素な生活を送り、哲学と思索、瞑想を好み、深い教養と高徳を備えた人物であったと伝えられています。

塩野七生 氏の著書である『ローマ人の物語 Ⅰ ローマは一日にして成らず 』(新潮社 1992) にもヌマの政治的、経済的な業績が記述されています。
無用な戦争は避け、内政、産業を充実させ、暦の改革や宗教の制度を整えるなどの業績が描かれています。

“ 歴史家リヴィウスは『ローマ史』の中で、ヌマの業績を述べるにあたって次のようにはじめている。
「王位に就いたヌマは、それまでは暴力と戦争によって基礎を築いてきたローマに、法と習慣の改善による確かさを与えようとした」”(『ローマ人の物語 Ⅰ』, p.37)

また面白い逸話もあるようです。

ヌマは “ 王をあらわす紫衣ではなく、白の神官のトーガを身にまとい、しばしば一人だけで森にこもった。...... しばらくすると、ヌマはニンフを通して神々から指図を受けているのだと、人々は信ずるようになる。実際、森から出てくるたびにヌマは、何らかの改革案を市民集会に提案したからである。”(同上 , p.48)

もちろん森の中で、ニンフや神々と交信なんてことは伝説でしょうし、実際に森の中にこもったとしても、権威付けのためだったかもしれません。

それでも、ひょっとすると、瞑想などによる内なる意識の影響がヌマ王にもあったのかもなぁと思うと面白いですね。
まぁロマンチックな妄想なわけですが。


紀元前14世紀のエジプトのファラオにアメンホテプ4世がいます。アクエンアテン、イクナートンとも呼ばれています。
有名なツタンカーメンの近親、遺伝子調査では父という説があります。

アクエンアテンはアマルナ革命(宗教改革、首都移転、アマルナ美術)で有名です。
大きな騒動を引き起こしたわけです。

宗教改革では、アテン(アトン)一神教が提唱されました。世界初の一神教という説もありますが、現在では唯一神教だったのか、それとも多神を維持したままでアテン神を最上に据えたものかどうかについては諸説あるようです。

ちなみに無意識の研究で有名なフロイトは、アテン一神教がユダヤ教の起源であり、モーセによる出エジプトは、アマルナ革命破綻の混乱期の出来事だという説を唱えたことがあります。
(少し関連して ⇒ アテン賛歌

このアテン一神教の宗教改革は、教科書的には強大な政治権力団体であったアメン神官団の影響力を排除するため、さらに宗教的な権力も握るためとされています。

私は宗教改革には政治的思惑だけではなくて、アクエンアテン自身の信仰上の理由もあるのではないかと思っています。
つまりアクエンアテン自身がアテン一神教を信じ、熱心であったと思っています。

根拠は提示できません。私の勝手な思い込みです。
エジプトの伝統・慣習を否定し、大きな混乱を招くような宗教改革であり、これには政治的思惑だけでなく、個人の信条、宗教的情熱も絡んでいたのではないかと思うのです。

ズバリ言うと私は、アクエンアテンには宗教的体験があったのではと考えています。
それによりアテン一神教を創始したと考えています。

アクエンアテンはファラオであると同時に、宗教的体験による新宗教の開祖というわけです。
ひょっとするとアスペルガーや注意欠陥・多動(ADHD)といった個人的な傾向もあったりして、それも思い切った改革実行に関係しているのかもしれません。

最悪な例 ―― アドルフ・ヒトラー (ナチス・ドイツ)

ヌマにしても、アメンホテプ4世にしても、内なる意識の影響があったとする明確な根拠のない与太話なわけですが、まだオカルト話は続きます。

人類史上最悪な例の1つであるアドルフ・ヒトラーと、(近現代の)日本の宗教史においては最悪な例である麻原彰晃です。
私はこの2人とも、明確な根拠を求められると、特にヒトラーに関しては困るわけですが、、内なる意識(無意識、潜在意識、意識の識閾下の領域)からの影響を強く受けていたのではと考えています。

特にこの2人は、内なる意識の影響としては、激しく、極端な傾向である「導かれる人」タイプであったのではと考えています。
詳しい根拠が提示できないので、ザッとオカルト与太話を述べてみようと思います。

アドルフ・ヒトラーが内なる意識の影響を受けた導かれる人であったというのは、根拠のない単なる私の直感です。

ただヒトラーには異様な雰囲気はあったようで秘書のクリスタ・シュレーダーやダンツィヒ市議会議長だったヘルマン・ラウシュニング、ライヒスバンク総裁・経済相だったヒャルマー・シャハト、ドイツ国防軍の軍人などヒトラーに接した人物の中には、彼について述べるのに「霊媒」「神秘家」「魔力」「催眠術のような力」「(第六感のような)直観」といった表現を使用することがありました。

有名なカール・グスタフ・ユングにはかなり直接的な表現があります。

“ ヒトラーは真に神秘的な呪師の範疇に属する人間である ......。
その声(自分自身の無意識)の命ずるところにしたがって行動する人間に似ている。われわれの場合は、たとえときおり無意識が夢を通して語りかけてきたとしても、合理精神と大脳がその声に従うことを拒否する ―― が、ヒトラーはその声に耳を傾け、そして従う。真の指導者とは例外なしに導かれる人間である” 『ヒトラー全記録―20645日の軌跡』 阿部 良男 著 柏書房
 ユングの1938年10月の意見


インドのヨーガ指導者、瞑想家にオーロビンド・ゴーシュという人物がいます。日本よりも欧米で知られている人物です。
このオーロビンド自身も十分に「導かれる人」だったと思います。その彼にはヒトラー、ナチス・ドイツに対する言及があったようです。

評伝オーロビンド』(ピーター・ヒース 著 柄谷凛 訳 インスクリプト 2011)にあります。

“ オーロビンドはヒトラー支配下のドイツは、邪悪な力......に「憑依された」のだと言っている。連合軍は、それ自体としてはとても神聖なものとは言えないが、独裁の枢軸に対抗することによってダイヴァ、神の力をあらわすようになった。”(『評伝オーロビンド』 , p.241)

オーロビンドは詩や劇詩を良く書いていました。

“ 『解放者ペルセウス』(Perseus the deliverer)には、ヨーガに造詣が深い詩人にしか書けないような台詞がある。 劇中で、悪役のポリデオンは超自然的なものに取り憑かれている。これは一時的には彼に力をあたえるのだが、最後には彼を破滅に追いやってしまう。 ヒトラーが見舞われ、オーロビンド自身の弟子の何人かも小さな規模で見舞われたのは、このようなことだったと、オーロビンドは言っている。 ”(同上 , p.206)

劇中のペルセウスの台詞が続きます。

“ この者は、しばらくのあいだ
超自然的な恐ろしい力の、器となった。
そして彼の身体を通じてこの力は、数々の悪事を働き
残忍なことをした・・・・・・
   ことが終わるとその力は彼から出ていったが、
そこに残されたのは、壊れて使いものにならない、もぬけの殻。
人間としてすらまともに機能しなくなってしまった。こんなことならば、
平凡な人間であるほうが
そしておとなしく死すべき生を生きるほうが、よいではないか。
自らのうちに、タイタンの力を呼び起こしたりするよりは。
あまりに恐ろしく強大で、人の身体では受け止めきれないような力を。”(同上 , p.207)

私は、ヒトラーには生まれ持った敏感さがあったと考えています。ヒトラーはオカルティストだったという情報がありますが、それはガセネタのようです。瞑想やヨガであれ、占星術、オカルト魔術であれそういったのを愛好していませんでした。

しかしヒトラーには持って生まれた素質、体質、性格、心理的傾向があり「導かれる人」タイプになったと考えています。
また1918 年、第一次大戦末期のベルギー戦線で毒ガス攻撃により、一時期 失明状態(心理的なショックによるとの説もあり)に陥り、催眠治療を受けたという情報もあります。これも何か影響を与えたのかもしれません。

関連:ヒトラーに関しては ↓ ↓ のnoteでも。


最悪な例 ―― 麻原 彰晃 (オウム真理教)

数々の凄惨な事件を引き起こしたオウム真理教の教祖 麻原彰晃(松本智津夫元死刑囚)も「導かれる人」タイプであったと思っています。

麻原・オウムについては密教についてのnoteでも触れました。

私はオウム真理教は、科学技術の発達した現代日本において、信じがたいほどの規模の密教の実践団体であったと考えています。

しばしばラジニーシOSHO)のところと比較されることがあります。教祖や幹部の特徴を含めて、まぁ確かに似てるところはあります。
私はラジニーシのところは、つまらない現実社会を生きたり、物事を考えることに疲れた人達やヒッピーの掃きだめ、性病の蔓延したニューエイジかぶれの性の戯れの団体というイメージしかないです。

 近年ではラジニーシは再評価されているという意見もありますが、そもそもラジニーシには現代に再評価すべき思想なんてあったのでしょうか?

西洋の新興心理学的な思想と東洋の宗教的・神秘的な思想のごちゃ混ぜであり、なんとでも解釈できる精神主義的内容が延々と述べられていて、結局のところは一体何なのかがサッパリ分からない、というのが私の感想です。

タントラ(密教)の指導者という評価を聞いたので、その思想についての書籍を読んでみたことがあるのですが、彼自身は何らかの宗教的体験があるのは間違いないのでしょうが、その発言は性が大好きの夢遊病者の戯れ言とかわりなく、ひょっとすると思わせぶりなこと以外には、具体的で明確なことは何も知らないし言えない人なのかなぁ、というのが私の感想です。

まぁ、信者には人生が悲惨なことになった人も多いと思いますが、ラジニーシ自身は波瀾万丈の楽しい人生だったのではないでしょうか。

ラジニーシは過ぎ去った過去の狂騒、愉快な面もあったカウンターカルチャー時代の乱痴気の思い出として片付けてしまって良いと感じています。

人それぞれですけどね。私が愚かで間違っているだけかもしれない。

オウムに関しては、事情が違っていると感じています。

“ 私たち自身が、オウム真理教の信者や元信者と話をしてみて、おもい知らされることがあった。チベット密教に関する彼らの知識に、極端な偏りがあるのだ。彼らはチベット密教の修行法やそこから生じるとされる神秘体験について、詳しい情報をもっていた。とくに瞑想法に関する知識はかなりのレベルに達し、なかには「瞑想オタク」とよんでもいいほどの信者すらいた。 ”(ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房 2008 , p.11)

結局のところはカルト教義とされますが、思想的には構築されているところもあり、特に密教の実践の身体的な行法においては、ラジニーシのところの乱痴気とは違い、実際的な作用のあるものでした。

オウムの行法に関してはいろいろな逸話があります。

教団の犯罪が明らかになった後に、ジャーナリストや心理学の関係者の中にはオウムの修行を体験してみた人もいるのですが、異様な体験をしたとする報告があります。

田口ランディ 氏の「実体験をもとにした私小説」である『逆さに吊るされた男』(河出書房新社) には住職をしている「北島暁妙」という登場人物がいますが、この人物がオウムの修行マニュアルに沿って実践してみたら神秘体験をしたという記述があります。

蛭川立 氏の『精神の星座 内宇宙飛行士の迷走録』(サンガ) にはハタ・ヨーガによってクンダリニー(クンダリーニ)?のエネルギーの体験をした記述があります。
このハタ・ヨーガの実践はクンバカとバンダという技法をともなったムドラー(クンバカ・プラーナヤーマ)という行法であり、これはオウムでも行われていた行法です。

教祖 麻原は、金銭に執着し、宗教を金儲けの手段と考える詐欺師風情の人物と行動を共にしていた時期があったり、愛人が何人もいたり、信者には禁じている肉食をしたりなど、妖しいところ満載なのですが、ただの詐欺師では決してなかったと考えています。

おそらく素質才能もあり、行法や瞑想には確かに熟達しており、宗教的体験、瞑想体験も豊富であったのは間違いないと考えています。

宗教ビジネスで金品を巻き上げようとする人物ではなくて、麻原自身は宗教心によって駆り立てられていたと考えています。
宗教的体験によって駆り立てられ、導かれていたと考えています。

臨死体験者の中には、その体験中に「光の存在」など「高次の存在」に出会い交流したと主張する人がいます。

幻覚成分を含む自然物を用いる中南米のシャーマンの儀式に参加した人にも、特殊な意識状態で「意識を持った存在」「動物霊」「植物霊」と交流したという人がいます。
前述の蛭川立 氏の『精神の星座』にもこういった話はあります。
ちなみに中南米のシャーマンの薬草・伝統療法などの知識は、そのような存在との交流によって教えられたとする言い伝えがあります。

ロバート・モンローなどの方法による体外離脱体験においても、「ガイド」と呼ばれる存在などの体験報告があります。

おそらく麻原の豊富な宗教的体験の中には、この種の意識体験、幻覚体験も含まれていたのだろうと考えています。
麻原はその存在を「シヴァ大神」「神々」などと呼んでいたようです。

麻原・オウムの事件は、確かにカルトの狂気によるものですが、その根底には宗教性、麻原自身の宗教的体験があるのは間違いないと考えています。

“ オウム問題は、密教が ...... もともと内に抱え込んできた或る「昏(くら)い」部分を、最悪のかたちで噴出させてしまったと考えられる節があるからにほかならない。いいかえれば、密教は、下手をすると、オウム真理教のような凶々しい集団をうみ出しかねない危険性をはらんでいるということである。”(正木晃 著『密教の可能性―チベット・オウム・神秘体験 超能力・霊と業』大法輪閣 1997 , p.6)


意識のトランスパーソナルな領域からの影響

ナチス・ドイツによるホロコーストであれ、オウムの大騒動であれ、合理的には理解できない狂気によって駆り立てられたかのようにも思えます。

そしてヒトラーに対するユングの意見などを考えても、麻原がヨーガ、瞑想に熟達していて宗教的体験があったであろうということを考えても、両者ともに識閾下の領域、内なる意識、無意識といった意識領域からの強い影響を受けていたと言えるのではないでしょうか。

その意識領域は宗教的体験や瞑想体験、臨死体験、幻覚成分を用いた意識体験などに共通する領域であり、その強い影響下にあったのではないでしょうか。

ヒトラーにしても麻原にしても、強い使命感―― それが狂気に通じるわけだけれども ――を持っていたのは共通していると思います。
前者は「ドイツの救済」、後者はシヴァ大神の導きのもとの「宗教的な救済」というのを「神聖な使命」と感じ、それに自らを捧げようとしたというのはあると思います。

そして実際に信じがたい力を発揮しました。
ヒトラーは1938年くらいまでに暗殺されていれば、ドイツを救った英雄という評価を得たかもしれない、といったような内容の発言をして辞職したドイツの政治家もいます。
麻原は宗教に幻滅しがちな現代の頭の良い理工系学生をはじめ大勢の人を「直接体験」に誘う力を持っていました。

両者ともに自らに与えられた「神聖な使命感」を意識していただけでなくて、周囲にもハッキリと語っていました。

そのような「神聖な使命感」という感覚の起源は、識閾下の領域、無意識、内なる意識にあるのではないでしょうか。

ではなぜその意識領域からの影響を受けると、「神聖な意志、使命」といった感覚が生じるのでしょうか?
それはおそらく、その意識領域にはトランスパーソナルな性質があるからだと考えています。

特にそのトランスパーソナルな性質を強く感じるような体験の場合には、そこからやってくる影響力が「神、高次の存在の意志」として感じられるのかもしれません。ひょっとするとユングの言う「元型」にも関係するのかもしれません。

両者ともにその影響力に打たれたとも言えるかもしれません。

意識のトランスパーソナルな領域からやってくる影響力がどのように、両者の狂気に結びついたかというと、これについては私はまだ考察が済んでいないのですが、あり得るものとして誇大妄想、影響を受ける側の人間性、そしてひょっとすると自我(エゴ)の影響によるのではないかと考えています。

誇大妄想や人間性というのは、まぁなんとなく分かりやすいと思います。

自我(エゴ)に関しては、瞑想の伝統などで古くから言われているように根が深い問題かもしれません。
この問題に関しては上述の相当な瞑想家でもあったオーロビンド・ゴーシュも言及しています。

自我(エゴ)を持つ個人の意識の内に、どういうわけだか、トランスパーソナルな領域があるとするわけですが、トランスパーソナルな性質ゆえに、強固な自我意識(エゴ)を持ったまま、その領域に触れると何らかの厄介な問題が生じるのではないでしょうか。

ヒトラーも麻原も内なる意識にあって異火を捧げてしまったのかもしれません。(レビ記 10. 1~2)

以上、オカルトの与太話でした~。

◇◆◇◆

一つの時代の宗教は、次の時代の大衆文学である。”というラルフ・ウォルド・エマーソンの言葉を『神は妄想である―宗教との決別』(リチャード・ドーキンス著 垂水 雄二 訳 早川書房)で知りました。

“ 宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。”(スティーヴン・ワインバーグ) や  “どの村にも、灯りをともす教師と 灯りを消していく聖職者がいる。 ”(ヴィクトル・ユゴー) などの言葉も面白いです。

レビ記の含まれる聖書(旧約聖書、モーセ五書)はもはや、宗教文学、神話、伝説、昔話の寄せ集めのわけですが、教養としては生き残るのでしょう。
そのイザヤ書には、特にヒトラーにピッタリの詩があります。(イザヤ書14. 12~)
「黎明の子、明けの明星」とは おそらくネブカドネザル二世(などのバビロニアの王)のことだとされています。

黎明の子 明けの明星よ
あなたは天から落ちてしまった。

もろもろの国を倒した者よ
あなたは切られて地に倒れてしまった。

あなたはさきに心のうちに言った。

「わたしは天にのぼり わたしの王座を高く神の星の上におき
北の果てなる集会の山に座し
雲の頂きにのぼり いと高き者のようになろう」

しかしあなたは陰府に落とされ 穴の奥底に入れられる。
あなたを見る者はつくづくあなたを見 あなたに目をとめて言う。

「この人は地を震わせ 国々を動かし 
世界を荒野のようにし その都市をこわし 
捕らえたものをその家に 放免しなかった者ではないのか」

もろもろの国の王たちは皆 尊いさまで自分の墓に眠る。

しかしあなたは忌み嫌われる月足らぬ子のように 墓の外に捨てられ 
つるぎで刺し殺された者でおおわれ 
踏みつけられる死体のように穴の石に下る。

あなたは自分の国を滅ぼし 自分の民を殺したために 
彼らと共に葬られることはない。