「内なる意識」のセラピー。生と死、ターミナルケア。瞑想を続けてきて思うこと。
内なる意識 ネタです。私が瞑想実践において、今や最も重視するようになったのが 内なる意識です。
この「瞑想する人」noteでは 瞑想も密教も、瞑想による効果・効能に関することも、内丹の小周天なんかも全て 内なる意識 に焦点が当たっています。
明晰夢 や体外離脱体験にはあまり関心ないですが、そのうちにこれらも 内なる意識 を重視する体系の中に、組み入れられるかもしれません。
チベット密教で関心のある「ナーローの六法」という体系の中には、明晰夢を用いた修行や体外離脱のことなのかなぁ、というのもあるようなので。
しばらく前に再びネタ切れになったかなと思ったのですが、なんだかんだで心に湧いてくるものがあり、備忘録的に、雑記として。
瞑想の実践と 内なる意識 の実感
深刻なうつ不安に襲われ、それから瞑想によって抜け出した当初は、内なる意識への焦点はボンヤリしていました。
しかし瞑想の継続と、自分の考えをnoteに記すことを通して、より輪郭がはっきりしてきた感じです。
瞑想を継続すればするほど、内なる意識がより明確になり、「表層・自我」意識と、その奥、もしくは その背後にある意識の違いが明確になっていくような感じがしています。
それだけではなくて、内なる意識というのが、真に重要なものであるという確信のようなものが生じつつあります。
私たちが、日頃「これこそが私である」と考えるようなものは しょせん表層的な、皮相的な自我意識であり、そういった意識の奥には自分の内にありながらも、まだその価値に直面していない ――「何か」―― があるに違いないというような感覚です。
そしてこれは、自分自身の心の動き、感情を客観視する能力とも関わっているように感じます。
またレジリエンスにも関わると感じています。
というのは内なる意識に気づけば気づくほど、その中に自分の感情を客観視するための拠点が得られ、かつ通常日頃の自我意識の皮相さが明確になっていき、把握しやすくなるような感覚が生じてくるからです。
これが行きすぎると、宗教的隠遁や離人・解離症などといった、極端なことになってしまうこともあるかもですが、ホドホドならば冷静さや自己客観視の能力に関係し、立場問わず、役立つことも多いのではないでしょうか。
経営者や外科医やアスリートといったような人たちに到るまで。
内なる意識は「フロー(ゾーン)」といった状態と関係があるのではないかという考えも強まっています。
瞑想を継続すればするほど、内なる意識が明確になっていき、そのような時には「フロー(ゾーン)」の状態と言ってもよいのではないかと思のうです。
そもそも、そうでなければ座ってジッとなんかしていられません。
以前は、その状態になるのに集中力が必要だと考えていました。集中力によってその状態を作り出すという感じです
これは間違いではないとは思うのですが、瞑想を続けてきて今は、そういったものというよりかは、心理・意識の中に、その「場」があって、それに入りこむという感覚が生じています。
まさに文字通り「フロー(ゾーン)に入る」という感覚です。単なる感覚や表現の違いと言ってしまえば、そういうことなのかもしれませんが。
こういった点でも瞑想が創造性を高めることがあるのかもしれません。
内なる意識と「フロー(ゾーン)」状態には関係があり、「フロー」の状態では、自分自身との対話、自分の無意識との対話というものが促進され、創造性につながるのではと私は考えており、そして、瞑想によって内なる意識と向き合えば向き合うほど、「フロー」状態を得やすくなるのではないかという感覚があるからです。
さらに内なる意識は表層的な自我意識よりも、自分自身の存在にとって本質的なものなのではないかという感覚も生じています。
これはセラピーにも関わるのではないでしょうか。
内なる意識とセラピー
私は自らの体験から、内なる意識に触れるということ自体に治癒力があると考えるようになりました。
例えば臨死体験者が体験後にポジティブな変化があった場合には、それにも内なる意識の治癒力が関係するだろうと考えています。
なぜなのかというと、おそらく内なる意識というのは、何か自分自身の本質的なもの、いわば「生命ー意識ー存在」それ自体といったようなものに関係するからだと考えています。
これはセラピーや心理的なケアにも用いることができるのではと考えています。
私は専門家ではないし、またこういった考えは既にあるものだろうとも思いつつも、備忘録的に記しておきます。
つまりうつ不安、依存症、グリーフケア、ターミナルケア、PTSDなどなどへこの内なる意識が適用できるのではないかと思うのです。
もちろん既に瞑想が、こういったことに適用されていますが、私はもっと内なる意識というものに焦点を当てるべきなのではないかと思うのです。
自分自身の感情や心の働きを冷静に観察して、修正すべき癖に気づくといったことも重要だと思うのですが、もっとそれ以前の段階、つまり瞑想などによって自らの内なる意識に触れあうということ自体にも焦点を当てるのです。
そしてセラピストは、問題を抱えた人達(クライエント)自身が、自らの内なる意識に向かうことで回復するのを助けたり、環境を整えたりすることを大切にするような工夫の仕方もある思うのです。
心理療法や認知・行動療法であれ、催眠療法であれ、音楽やアロマテラピーなどを用いるものであれ。
こういった考えをセラピー応用する場合には、セラピストがすべきことは、まず、(信頼関係を築いた上で)クライエントが内に向かうのに障害となる要素をできるだけ除去し、リラックスを助ることです。
内なる意識との良質な触れ合いを助け、その後は問題となっているクライアントの心理や認知の癖を修正するのを助けたり、本人も気づいていない価値あるものに目を向けさせたり、励ましたり、といったことだと思います。
内なる意識それ自体に治癒力があるのなら、とにかくそれに触れさせるのです。
そのために、カウンセリング、傾聴であれ、音楽、アロマテラピーであれ何であれ用いて、落ち着かせ、リラックスした安心した心理状態で内に向かわせクライエント自らの「内なる治癒力」に触れさせるのです。
これを何回か繰り返す内に、徐々に状態が良くなってくるかもしれません。
そうなったら、認知・行動療法などでさらに強力サポートするようにします。
観察の瞑想も、こういった段階では特に有効になってくると思います。
これが「内なる意識の治癒力」を用いたセラピー案の概要です。
生と死と内なる意識 ―― ターミナルケアにも
私が生と死について語るのは、明らかにおこがましいことなので、まとまっていない浅い意見をザッと。
内なる意識というのは、ひょっとすると私たちの「本質」にも関係するような意識かもしれないと感じています。
そのため内なる意識に向き合うというのは、私たちの「生」に向き合うことに通じ、生を尊いもの、良いものとすることに通じるかもしれません。
また内なる意識は「死」にも関係しているかもしれません。
なんの根拠もない私の妄言なのですが、ひょっとすると死の際に この内なる意識を経験するのかもしれません。
臨死体験者の中にはポジティブな変容がある場合があります。それはそれによって異様な意識体験をしたからです。
私は特にそういった臨死体験中の意識というのは、内なる意識に関係があるのではという直感を抱いています。
つまり内なる意識の体験というのは、生に通じるものであると同時に死にも通じるもののようなところがあるのでは?というのは、どうしようもない私の妄想か......。
そして、内なる意識の体験を、私たちにとってポジティブなものとするのなら、死をも良いものとするのかも知れないなぁ ...... と。
臨死体験者の中には、死をも良いものとして向き合うようになった人がいるように。
(それだけでなく、その超越的な意識の体験中に素晴らしい意識状態を経験して、肉体を離れることがいかに素晴らしいかことかと思ったら、なんだかんだで肉体に戻りガッカリした人までいるようです。)
瞑想などによる内なる意識の体験は、生を良いものとし、死をも良いものとする力があるのかもなぁ......。
瞑想を継続すればするほど、内なる意識が明確になる感じがするのですが、その内なる意識は表層的な自我意識とは違って、どうも、どういうわけか、「これは私である」とは言えないようなものなのでは という感じがするのです。
私の内にあり、自分自身の本質に関わるようにも感じられる一方で、どうしたわけだか「これは私である」とは言えず、どちらかというと、超越性、超個性、トランスパーソナルな性質を帯びるような感じがするのです。
もし内なる意識に、生を良いものとするだけでなくて、死をも良いものとする力があるのならば、それは、トランスパーソナルな性質ゆえなのかもしれません。
死においては自己、個我が消滅するようにも見えます。
内なる意識には、個人の内にありながらもトランスパーソナルな性質ゆえに、そのことすらも肯定するような力が備わっているのかもしれません。
このことは宗教を信じることが難しくなった現代において、ターミナルケアにも役立つかもしれません。
臨終の最期の息の後には、遺された人の記憶以外に、存続する何かが有るのか、それとも何も無いのかは 現時点では分かりません。
臨死体験者の中には死後の生命を信じるようになった人もいるわけですが、それでもこれについては、何とも言えません。
死へ向かいつつあることから生じる不安、心配、苛立ち、混乱、恐怖などに対しては、この世的には事実上、 慰めようがないわけです。この世的には亡(無)くなるとしか言いようがないわけですから。
信仰によって救われる人もいるでしょうが、現代では皆がそういうわけにはいかなくなっています。
しかし内なる意識の体験は、終末期にある人の主観的な態度、精神的な状態をポジティブなものにする力があるのかも ...... と。
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内なる意識は自分自身の内にあるものであり、本質的なものと感じられながらも、トランスパーソナルな性質もあるのかもしれません。
そのような性質ゆえに、内なる意識は個我の生死を超越したものと感じられることもあり、また人の生だけでなく死をも良いものとする力もあるのかもしれません。
このようなことは宗教や神秘主義の伝統の中でも、瞑想、禅の修行者や、宗教的体験、神秘体験、臨死体験を経験した人からも言われてこなかったでしょうか?
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以上、私の妄想の備忘録的な雑記でした。
私の番になったら、瞑想中に往生したいなぁ。死期を悟ったら瞑想して、チベット密教やヨーガなどに説かれているように、内なる意識の光明の中に溶けていってしまいたい。まだ気が早いか。
でも今の内から瞑想の実践を真面目に積んでおこう。