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雑文随想:内なる意識と人類の文明 ―― 瞑想、臨死体験(NDE)、幻覚成分、etc

 今回はオカルト、スピリチュアルの妄想みたいなことを、徒然なるままにそこはかとなく書き付け雑文に。

深刻なうつ不安と「内なる意識」の体験

もう何度も言っていますが、数年前に死を意識するほどのうつ不安に襲われました。
ホントにヤバかったです、酷い時は。

“ 心の中に、ポッカリと大きな穴が開き、その不気味な底無しの深淵から真っ暗闇が立ち上り、それに飲み込まれるような恐ろしい感覚が生じたのです。
その真っ暗闇は、真っ暗闇、途方もない、純粋な暗闇としか表現しようがなく、生命の、もしくは、存在それ自体の真っ向からの完全否定以外にはなにもないようなものでした。

この恐怖感は、今まで自分が感じたことのあるものとは完全に異質のもので「」や「死の恐怖」をダイレクトにイメージさせるものでしたが、その暗闇は死臭すらも無い純粋な真っ暗闇でした。”    note:20/02/07

こんな種類の恐怖が存在するのか ...... といった体験でした。

しかし文字通り天の助けなのか、突然インスピレーション、イメージが降ってきて救われました。

“ 「意識の大海」というイメージです。
人間の意識というのは、日頃、自分自身で意識できるよりも広大であり、表層は太陽に照らされ、雨に降られ、風が立ち、嵐や竜巻が起こり、波によって騒がしくかき回されたたとしても、内部の深い部分はゆったりとした静けさがある、というものです。
そしてその内なる意識の広大な静けさの領域には瞑想によってアクセスできる、というものです。 ”                            note:20/02/07

このインスピレーションの導きに従って瞑想したら急激に改善しました。

私はこの経験から、人間の意識の内部には「内なる意識」と呼べるものがあり、それには「治癒力」のようなものがあるという考えを持つようになりました。

瞑想による癒やし――内なる意識の治癒力 [ 仏教の成立についても ]


今日では瞑想が注目されるようになっており、うつ不安などの改善目的でも実践されることがあります。
瞑想で自分の感情を一歩引いた視点で、好悪の判断なく冷静に客観視する、なんて言われることもあります。

私は、自らの感情を冷静に観察するということも効果の内なのでしょうが、しかし「内なる意識」との接触はそれ以上に重要なことであると考えています。

瞑想による 内なる意識 との接触によって、私は酷いうつ不安から抜け出たと考えています。

では、瞑想以外では、このように 内なる意識 との接触によって、個人の意識、精神・心理などに変化が生じたと言える例は無いのでしょうか?
私は有ると考えています。

それはたとえば、臨死体験NDE 、 Near Death Experienc)や幻覚成分による意識体験であると考えています。

臨死体験、幻覚成分

臨死体験NDE 、 Near Death Experienc)は、日常的に体験するものではありませんが、各メディアが触れることによって、今では広く知られるようになりました。
最も有名な関連書籍に、立花隆氏の『臨死体験』文藝春秋 があります。

事故、急性症状などで死の淵を彷徨うなか、意識が身体を抜け出て、異様な意識体験をするものです。
これによって、しばしば生きるのに前向きになったり、うつ不安などの症状が改善したり、愛情深くなったり、人生にスピリチュアルな意義を強く感じたりなどの精神・心理の、もしくは人格的な変容を体験することがあるという報告があります。

いくつかの幻覚成分に関しても似たような体験が知られています。この幻覚成分というのは、例えば中南米のシャーマン、伝統的な宗教儀式によって用いられる、特定のキノコ、サボテン、植物などに含まれるものです。
化学的に合成されたものも含まれます。

これらによってスピリチュアルな体験をして、例えば「私には愛を説く使命がある」などと言い出すようになり、社会からドロップアウトしてそのまま行方知れずになったりした人もいます。

幻覚成分も臨死体験と同様に、ポジティブな変容を経験する人も多いという報告があります。

実際に今では、いくつかの幻覚成分に関しては、欧米で、ターミナルケア、グリーフケア、依存症、うつ不安、自傷行為や希死念慮をともなう深刻な症状 ...... などへの適用も研究されています。

内なる意識 ―― 瞑想、臨死体験、幻覚成分、密教

瞑想、臨死体験、幻覚成分、もちろんこれらは違います。

Googleの社員は瞑想によって、超越的意識状態で「光の存在」によって愛の大切さを教えられたり、極彩色の幻覚を見たりはしていないでしょう。

これらの体験には個人差がかなりあり、また幻覚成分なら、その成分によっても意識体験や幻覚の強さや、種類、傾向などに違いがあるともされています。

でも瞑想、臨死体験、特定の幻覚成分による体験の中には、ポジティブな変化が報告されることもあり、私は、特にこの場合には共通する要素があるのでは、と思っています。

それは「内なる意識」に関する体験です。

例えば臨死体験者が、その体験中に「光の存在」から愛の大切さを教えられ、実際に愛情深くなるなどの変化がある場合には、もちろん光の存在の説教も重要かもしれませんが、その時に体験した意識状態それ自体にも変容させる要素があったのではないか、とも思うのです。

幻覚成分による異様な意識体験においてもしかり。

臨死体験や幻覚成分によって、ポジティブな変化ある場合には、その時の意識体験は、資格試験の勉強とか、仕事上の資料整理とか、家事・雑事などに関するものではなくて、もっと人間の生命や生存といった根本的なことに関する体験ではないでしょうか?

いわば「生命意識存在」それ自体に関する意識体験と言えるのではないでしょうか?
私はこれは内なる意識に関係すると直感しています。そして私は瞑想は内なる意識に関する実践であると考えています。

臨死体験や幻覚成分によるものに似た体験を、生命エネルギーを扱う密教においても体験すると言われています。

用語解説:「生命エネルギー」「密教」など。

幻覚成分や臨死体験者の中には「脊髄付近をエネルギーが上昇する」などの体験を報告する人がいます。
立花隆氏の『臨死体験 上』 文春文庫 2005 の第十一章はズバリ「クンダリニー覚醒」です。


ちなみに、ある種の幻覚成分は、低酸素状態や身体の危機的な状況において体内で分泌される、などとも言われています。

「どんなに寒くてもへっちゃらだ」ということで知られる人物に、ヴィム・ホフという有名なオランダ人がいます。明治ヨーグルトR-1のCMにも出演したことがあります。
雪の降り積もる中、短パンだけでヨガをやっていた男性です。

この人はヴィム・ホフ・メソッドというものを提唱しており、その中には独特な呼吸法があります
この呼吸法にそっくりなのがヨガにもあります。

そして実は、数々の凄惨な事件を引き起こした、あの教団において、このヨガの呼吸法が重用されていました。
これは素早く繰り返す呼吸とクンバカ(息止め)がともなったものです。

繰り返す呼吸によって、二酸化炭素が過剰に排出され、呼吸性アルカローシスになります。
人体はそういう状態では、呼吸数も、脳血流も減少する仕組みになっています。
さらにクンバカもともなうので、低酸素状態になり、幻覚成分も体内で分泌されるかもしれません。

ちなみにあの教団では、この呼吸法によってクンダリニー(クンダリーニ)を体験したとする信者がいるそうです。
(マニアックなヨガの実践者の中には、こういった負担の強いヨガの呼吸法で失明したり死んだりもあるわけですが。)

臨死体験でポジティブな変容を遂げた人達とはちがって、あの教団は大変な事件を引き起こしてしまいました。いろいろと考えさせられます。

密教について① 起源(直接体験、神秘体験)と問題点

内なる意識と人類の文明

人類には内なる意識に向かう衝動があるのかもしれない、とも思っています。
内なる意識は人類の文明のあり方にも影響するかもしれません。

密教について② 密教の方向性

18世紀には西洋の台頭が生じ、一方でオスマントルコ、ムガル帝国、清などアジア勢力は最盛期を経て降り坂になりました。
19世紀には合理主義、科学による西洋の勝利とも言える時代を迎えることになりました

その19世紀においても、内なる意識に向かおうとする潮流はあったのではないでしょうか?

心理学においては、フロイト、ユングらが活躍し、無意識というものに関心が強まりました。

宗教においては、まぁ、オカルトですが、ブラヴァツキーらによって神智学協会が設立されています。これはオカルトや東洋の宗教、思想に強い影響を受けています。

東洋の思想・宗教の欧米への紹介も活発に始まりました。ヴィヴェーカーナンダなどが活躍しました。

1893年にはアメリカ、シカゴで万国宗教会議が開かれ、そこで鈴木大拙の禅の師でもあった釈宗演も演説しています。

アメリカのキリスト教においてはニューソートと呼ばれる潮流が生じました。スピ系で「引き寄せの法則」というのがありますが、これはニューソートが元ネタであると言われています。

20世紀に入り、科学の進歩もある中でも、精神的な流れは続きました。

日本やナチス・ドイツなどでは、民族主義とオカルト・宗教熱が一緒くたになった感情が渦巻いていました。
またインドにおいてはヒンドゥー・ナショナリズムというのもありました。

大戦後も、アメリカなどでは、東洋の思想・宗教、反戦平和、ヒューマン・ポテンシャル運動、ヒッピー・カウンターカルチャー、自然回帰思想、ニューエイジ運動などがごちゃ混ぜになった精神的な潮流がありました。

日本においても、オカルト精神世界、新宗教ブームなどがあり、この流れにおいて かのオウム真理教が誕生し、優秀な理工系学生などを巻き込みながら肥大し、大騒動を引き起こすことになります。

臨死体験は、1970年代になって認知されるようになりました。エリザベス・キューブラー=ロスや、レイモンド・ムーディらの活動によるものです。
日本では1990年代になって主に立花隆氏によって広く知られるようになりました。

そして今日、瞑想が先進諸国で広く認知されブームになっています。

私は、これら精神的潮流の基底には内なる意識へと向かおうとする衝動があるのではないかと感じています。
ヴェーダーンタや禅などの東洋の思想・宗教にも、ニューソートやニューエイジにも内なる意識の発現を私は感じます。

もちろん太古の昔から、この衝動は見られたと思います。原始宗教においても、神秘主義や秘儀・密儀宗教、迫害された異端宗教などにおいても。

現代先進文明においては、合理主義や科学による知的な、そして「物質的な」進歩のある中で独特な形で、もしくはそういった科学的・物質的な進歩があるからこそ、より明確な形で、場合によってはより洗練された形で、内なる意識への衝動があらわれているのかもしれません。

現代の瞑想ブームの基底にあるのは、瞑想が脳のメンテナンスやうつ不安改善などに役立つということよりも、本質的には 内なる意識 への衝動なのではないかなぁ、と感じています。

ひょっとするとこれを、エラン・ヴィタール (élan vital 、 生命の躍動)と呼んでも良いのかもしれません。
この言葉の元々の定義とは違っているとは思いますが。

以上、雑文、随想でした。