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【瞑想と夢】夢の導きを得る? 夢見を浄化する方法

(修行が進むと)“...… しだいしだいに薫習の夢は減り、やがては消失してしまう。逆に、光明の夢が増える。
 光明の夢というのは、そのときの状況(縁)と結びついて、心の本性からより直接にあらわれてくる夢である。”

ナムカイ・ノルブ 著 『チベット密教の瞑想法』永沢哲 訳  法藏館 2000 p.195

今回は夢についてのいつもの気まぐれの思いつきです。
今後の思索のために浮かんだアイデアをメモしておきます。


今現在は私はもちろん夢を見て覚えていることはありますが、夢への関心はそんなにありません。

夢を活用できたことがなくて、恩恵を受けたことがないからです。
また夢に関心を持つと明晰夢が増えて、これはこれでめんどくさいからです。

関連note:【怖い?】明晰夢は危険なのか?リスク、注意について

夢見と瞑想

瞑想のような精神的な、さらにいうと脳・神経生理的な実践が、夢見に影響するということがしばしば言われています。

どのような影響があるかについても、いろいろと言われています。
夢を思い出しやすくなるとか、明晰夢を見やすくなるとか、夢がクリアになるとかです。


私自身は自らの体験からは自信を持ってハッキリとは言えないのですが、瞑想が夢に影響するのはあり得るだろうと思っています。

瞑想の実践によって ――瞑想の質にもよると思うのですが―― 夢見がクリアに鮮明になり、さらに夢に独特な「落ち着き」「静けさ」のようなものが生じることもあるのではないかと思っています。


ちなみに私が明晰夢を最初に体験したのは、明晰夢に関心を持っていなかった時です。
関心を持っていなかったのですが、いろいろと瞑想を実践していた時に、全く意図せずに体験しました。

この明晰夢の体験については、確かに瞑想が関係していると考えています。

関連note:【 明晰夢の見方 】 無意識から創造性を得る夢見のヒント

光明の夢を見るために

さらに精神的、宗教的な伝統では「光明の夢」「啓発的な夢」「夢のお告げ・導き」といったものがあるとしばしば言われています。
チベット密教や仙道(内丹)、ヨガの伝統でも言われています。

(修行が進むと)“...… しだいしだいに薫習の夢は減り、やがては消失してしまう。逆に、光明の夢が増える。
 光明の夢というのは、そのときの状況(縁)と結びついて、心の本性からより直接にあらわれてくる夢である。たとえば、来年計画していることがあるとしよう。まだ来年にはなっていない。しかし、ふつうはもう何か準備をしている。ということは、その計画と関連した副次的条件(縁)が、すでに現在の状況の中に存在しているということだ。そういう副次的条件があるときには、光明の夢があらわれてきやすい。将来どんな風になるか、夢に出てくるのである。修行者にとって、教えや修行体験とむすびついた光明の夢は、特に大切だ。夢の中で、教えや修行法についてさらに明かになるのである。”

ナムカイ・ノルブ 著 『チベット密教の瞑想法』永沢哲 訳  法藏館 2000 p.195

関連note:明晰夢でヨガをする。チベット密教「夢のヨーガ」>> 夢の導き ―― 光明の夢

私自身は宗教的・スピ的な夢を見たことはあるのですが、「夢のお告げ」なるものは経験がないと記憶しています。
なので自信を持って言う資格はないのですが、いろいろと思うこと、アイデアはあります。

光明の夢のために提案するアイデアは2つです。

瞑想による浄化

節制や修養による浄化

瞑想による浄化

まずは瞑想によって意識、夢見を「浄化」するというアイデアです。

これはできるだけ質の良い(意識状態の)瞑想ができるようになることです。

この瞑想する人noteでは基本としてはサマタ(止)系のシンプルな瞑想をすすめています。
ヴィパッサナー(観)系は慣れてからの方が良いと思ってます。


就寝前に瞑想して自然に眠くなりウトウトしだしたら、横になって静かな意識状態のまま寝入るようにしたら良いと思います。

これによって光明の夢に適した意識ー神経生理の状態になるかもと考えています。

節制や修養による浄化

節制、感覚器官の快楽・享楽の節制は夢見に影響するのではという思いつきがあります。

感覚器官の快楽とは、性であれ、味覚であれ、そういった感覚的享楽、「肉体的な感覚の粗雑な快楽」です。
これには短絡的な快、怠けて楽を貪ろうとする心、、、といったものも含まれると思われます。

こういった粗雑な享楽の節制は、夢見の質に影響があるばかりではなくて、瞑想の質にも影響があるだろうと思われます。


他にはエゴの影響を弱めること、「諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意」―― 悪を避け善を行って心を浄化するといったことも光明の夢のためには良いと思われます。

この瞑想する人noteでは、エゴの無い非利己的な愛他利他を「顕教」として提案しています。


しかし節制といっても長期に渡る宗教的な戒律、禁欲は現実的ではないと思います。
こういった極端なやり方は、もちろん現実社会を生きる上での弊害となり得ます。

感覚的な楽しみは生活を彩り豊かにするものでもあります。
粗雑な享楽の耽溺放縦がないように自己を律するという社会良識的な程度で良いと思われます。

ただ、リトリートといった特殊な状況では、強めな節制は効果的かもしれません。

見たい夢を見る?

意図して見たい夢を見ることができるかについては、いろいろな情報があります。夢の科学的研究でも様々な見解があるようです。

見たい夢を見る方法を提唱している人もいるようです。


これについても私自身は自らの体験からは何も言えないです。

ただ、日中での体験が夢の内容に影響することがあるとされますが、(数日~2週間くらいの)タイムラグがあることが多いという研究があるようです。

なので興味がある人は、「こういったことに関する夢が見たい」と何日間か念じ続けるのが有効かもしれません。
瞑想などによって夢見が浄化されていれば、そのことに関する示唆的な夢を見ることもあるかもしれません。


明晰夢の場合は夢に対して自覚的に関わることができるし、夢を操作することすらできます。
しかしそれでも、完全に望み通りの夢を見ることができるかについては、個人の実践や素質にもよると思いますが、そんなに簡単では無いと思います。

夢のヨーガの上級者なら可能なのかもしれませんが。