“幸せ”について考えてみた
仕事に飲み込まれそうになることがある。
忙しいとき、少し睡眠が足りてないとき、ノルマやタスクに追われているとき。
嫌な同僚と関わったとき。
誰も悪くないようなミスが発生して、それが自分に降り掛かってきたとき。
困難案件について考えあぐねて、答えが見つからないとき。
脳内が仕事に占拠されてしまい、穏やかなマインドは、どこかに追いやられてしまう。
人間らしさを引き算した窮屈な人格になる。
心が搾り取られてしまっているから、もう自分の中にはアクのようなものしかなくて、顔や雰囲気として滲み出る。感情は無い。
「仕事のオンオフ」とかいいように言うけど、そんなの言い訳。余裕が無いだけ。
このような状態になってしまうことがある。
数年前はよくあった。
仕事がしんどかった。
仕事を辞めたくて辞めたくて、でも辞められないから人間を辞める手前で、自分を辞めてしまっていた。
ミヒャエル・エンデの『モモ』に出てくる時間泥棒は、私の前にも現れていた。
最近は、仕事にも慣れ、多少は信用を築けているような気がする。
ようやく安定してきた。
来る明日が怖くない、そんな毎日。
それを私は“幸せ”と思う。
“幸せ”とは何か?
「寝る前のひと時」「食べている時」「家族が無事に過ごせていること」知り合いたちに聞いたらそんな事柄を挙げていた。
本当に、どれも幸せな事だと思う。
もう少し、普遍的な定義があれば、灰色な世界に飲み込まれてしまっても、応用が効くのではないかと思い、考えた。
「幸せとは、簡単に逃れられない環境下において、その環境を楽しめている状態。」
なのではないか。
例えば、刑務所に収監されていたとして、外から見れば不幸のように映るかもしれないけれど、獄中で人生で出会ったことのない大親友ができたら…。
毎日の作業や規則正しい生活が楽しくて仕方なかったら…。
それは幸せな状態なのではないかと思う。
どんな環境にいたとしても、その環境を楽しめていれば、私達は幸せになれるのではないか。
逆に、環境をどう感じているか次第で私達はいとも簡単に不幸せにもなってしまうようにも思う。
今はなき、お笑いコンビのうしろシティの金子学は「夢は“毎日楽しい”だ。」と言っていたのが思い出される。
学校生活も職場も家庭も地域も、私達は簡単に抜け出せない。
そこでのトラブルは、私達の精神を生活ごといとも簡単に包囲する。気づいたら飲み込まれることもある。
転校、転職、退職、家出、引越し
すればいいじゃないかと思うのに、実際当事者の私達は、そんなに簡単にできない。
だから、簡単に抜け出せないこの環境を楽しむことができているのだとしたら、
幸せだと言えるのではないか。
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