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SDGsが嫌いになってきた? ~呪術廻戦からも考える~

2回ほどSDGsの活用法について書いたのに、なぜ?と思われるだろう。
そもそも、SDGsは手段であって目的ではない。扱われ方の一部に嫌気がさしてきている。
広告代理店やメディアが、頑張りすぎたせいだろうか。『これさえ言っておけばいい』との無思考に陥るキッカケとして使われているのかと、残念に思うようになってきた。

SDGsは、やさしい叱咤でもある

SDGsを言い変えるなら「下手な動きをすると、我々人類に返ってきますよ」の警告一覧だ。
これまでしっかりとやってきた方を勇気づけるだけでなく、目先の利益を追ってしまう人々に対して、プライドを傷つけないように叱咤する効果もある。

因果応報、周りめぐって自分たちに返ってくる。生活や立場の維持に追われていると、なかなか忘れがちな原則だ。このことを示すべく、地球環境がらみでなく、貧困などの社会課題についても広く掲げられている。
日本のことわざで言えば「情けは人のためならず」「風が吹けば桶屋が儲かる」といった表現が浮かぶ。古来からあった発想が、ようやく国際レベルで定義されたのかもしれない。

宣伝文句としての類似例

過去にも、社会性を含ませた広告や宣伝のうたい文句があった。思いつくままに挙げてみる。

  • リーズナブル

  • 地球にやさしい

  • エコ

まず、合理的を意味する「リーズナブル」や「地球にやさしい」は、新しい流れに乗っている気持ちにさせられたものだ。
これまでの所業を傷つけられずに(過去を水に流したうえで)、受け入れられる表現として共通している。ただし、いずれも最近の日常会話では使われなくなっている。

「エコ」は生態系を意味する”ecology”の略で、日本では環境全般を指す表現に転化した。もともと、人間以外のことも考える志向を意味したはずが、やがては「地球にやさしい」の略語にもなった。形容詞っぽくも動詞的っぽくも使われる名詞というか、エコな動きだ~と、エコしてるなどと、今でも使われる。要は、『良いことしてるな~』感をだしたければ、エコとつけておけばいは感覚が定着した。
便利なようで安易ではあるが、言葉の定義としては定着してきている。誤解があっても擦り合わせがしやすいから、そこまで問題はないように、私は思う。

「絆」に期待しすぎる怖さ

「絆」は、東日本大震災直後によく使われた表現で、『東北人は(首都圏などに比べて、家族や地域)の絆が強いから、被害を小さくできた』との表現を、方々でみかけた。
確かに、その側面はあるだろう。とにかくまず、目の前の人々と助け合うのに「絆」が役立つ。家族なんだから手伝う、近所だから何とかするとの立場は、無思考に動きやすい。

ただし、「絆」は”しがらみの人間関係”の意味もあり、お互いが無条件に義務を越えた形で絡みあう様をもさす。
もし『絆があれば、なんとかなる』とする人がいるなら、絆を保つ努力をしているのかと聞きたい。普段から、何かで貢献しているのかと問いたい。親だから子だからといって、疎遠にしていれば、助けたくなくなることもあるだろう。地域活動を無視し続ける人を助けたくなることもあるだろう。サイコパス的といえば言い過ぎだが、「絆」をタダ乗りできる互助機能だと捉えている方がいてもおかしくはない。

「縁」こそ大切ではないか

助け合いは、元からある「絆」でなくてもいいはずだ。
たまたま旅行先で自然災害に遭った方も、その土地に住んでらっしゃる方と同じ境遇に遭ったことで共通している。
偶然が生む「縁」こそ、大切ではないだろうか。

血族や地域などを由来とする「絆」は、束縛めいた関係であったりする。
一方で「縁」は、目に見えない様々な要因とも合わせて、たまたま結ばれた関係といえる。

縁を保つには、相互の努力が不可欠だ。
この人と合うだろうか、お互いに助け合えるだろうかと、一定以上の考えや料簡を経て、縁は育まれる。親子だから~などの無思考な条件ではなく、それぞれ理解し合いながら関係を結んでいくのが縁だと、私は考える。
そのうち、お互いの考え方について、言葉にせずとも想像がつくようになったりする。他人同士の結婚を「良縁」というように、長く続いている縁が「絆」よりも深いことは、しょっちゅうあるはずだ。

誰一人取り残さない~が独り歩き?

そこへきてSDGsは、『国連で決まったルールだから、間違いない』、言い換えれば『良いことは良い事、深く考えなくていい』と捉える動きもある。
まさに「絆」と近いニュアンスでSDGsが使われているケースを、私は危惧している。

恐れているのは、以下の部分だ。
SDGsの原文と、外務省による仮訳を並べてみる。

All countries and all stakeholders, acting in collaborative partnership, will implement this plan. We are resolved to free the human race from the tyranny of poverty and want and to heal and secure our planet. We are determined to take the bold and transformative steps which are urgently needed to shift the world on to a sustainable and resilient path. As we embark on this collective journey, we pledge that no one will be left behind.

Transforming our world: the 2030 Agenda for Sustainable Development
2nd paragraph of Preamble

すべての国及びすべてのステークホルダーは、協同的なパートナーシップの下、この計画を実行する。我々は、人類を貧困の恐怖及び欠乏の専制から解き放ち、地球を癒やし安全にすることを決意している。我々は、世界を持続的かつ強靱(レジリエント)な道筋に移行させるために緊急に必要な、大胆かつ変革的な手段をとることに決意している。我々はこの共同の旅路に乗り出すにあたり、誰一人取り残さないことを誓う。

我々の世界を変革する: 持続可能な開発のための 2030 アジェンダ
前文の第二段落

太字部分でわかるように、すべての国およびステークホルダーが実行役になることを前提にしてから、誰一人取り残さないことを誓っている。
この前文を踏まえ、17の目標などの本文が後に続くのだが、一部の方々が「誰一人取り残さない」だけを強調してしまう。私からすれば、民主主義でいう、誰しもが権限を行使できる側面を無視しているようにみえる。たとえ他意がなかろうと、影響が気になってしまう。

誰もが、地球の関係者

すべてのステークホルダーとあるように、国や大企業だけが、一方的に対策を実行するものではない。
市民一人一人が地球の関係者であり、解決策の実行者になり得る。衣食住や物の使い方への配慮、人との接し方(笑顔だけでもいい)などなど、小さくとも世界を変える権限を、生まれながらに持っている。
実行者になる余裕がないのなら、まずは「誰一人取り残さない」の対象として助けられればいい。今難しくとも、いずれ実行者になる機会があるだろう。

「誰一人取り残さない」は一時的な救いの言葉としては有効だが、助けられることばかり強調するうちに、助ける側が消耗する時が来る。
人であっても国であっても地球であっても、かならず限りがある。
決して、持続可能な発想ではない。

助ける余裕があれば助け、余裕がなければ助けられる関係は、人間社会の基本のはずだ。
その点で、助ける義務(権限ではなく)も含まれる”絆”を強調する動きの方が、私は受け入れられる。もしかすると”絆”の連呼は、『せめて、しがらみのある関係者とぐらいは助け合うべきですよ』とのキャンペーンだったのかもしれない。もしそうだったなら、かなり納得がいく。

呪術廻戦・虎杖悠仁の祖父の遺言

「情けは人のためならず」「余裕があれば助ける」と続いてみて、以下のセリフを思い出した。

「オマエは強いから人を助けろ。手の届く範囲でいい。救える奴は救っとけ。迷っても感謝されなくても、とにかく助けてやれ。オマエは大勢に囲まれて死ね。俺みたいにはなるなよ。」

集英社刊「呪術廻戦」第一話

呪術廻戦の主人公・虎杖悠仁の祖父が、孫に与えた遺言である。
彼もまた、人を助けつつ、不可抗力に潰されそうになっては助けられるストーリーのなかで生きている。これも、大ヒットの要因ではないだろうか。

最後の「俺みたいにはなるなよ」には、前の世代としての反省まで感じさせる。まさに、SDGsの精神?にもつながりそうな内容だ。
1992年生まれという作者の芥見下々氏には、高度成長期の常識を引きずる世代への疑問があったのかもしれない。

私もまた、疑問をぶつけられる世代の一人だろう。
反省しつつも、余裕があれば助けていきたい。

国際ルールを鵜呑みにするほど、地域の多様性は失われる

話を少し戻して、自主性の放棄といえば、SDGsが国際ルールであるにも関わらず、何が何でも守ろうとする方の存在だ。
SDGsは、あくまで国連が作った、法的拘束力のない指針である。地球規模で見て、このぐらいのことはしておき、後々の負担を減らさないとエライ目にあいますよ~との目安でしかない。
地球と言っても、雪の降らない地域があったり、夏は太陽が上がったままの地域もある。海女の文化があって、明確に女性上位が続く風習があったりする。それぞれの気候風土や文化に合わせた対応が必要であり、そのうえで地域の多様性が保たれる。いわゆるローカライズが重要だ。

多くの生活者や働き手は、必要に応じてローカライズを施しているだろう。が、一部の完璧主義者による強要が、SDGsを煙たがられる存在にしているのではないだろうか。
(どこかの学者みたいな表現だが)語弊を恐れずに言うと、改憲論者と護憲論者、それも公職にあるような方の一部が、ともに憲法の話題から人々を遠ざけている構図にも似ている。なぜ話し合おうとする空気を作らないのか。極論を出しっ放しにするのか。護憲派は、話し合いで憲法を変えない方向にもっていく自信がないのだろうか。逆もまたしかりだ。

私としてのSDGs活用スタイル

嫌いになった理由はこれぐらいにして、それでも私は、SDGsには意義があると考えている。ざっくり3点ほど書いておく。

今や、会話の前提として使うもの

SDGsの認知度はこの3、4年ほどで大きく跳ね上がった。
以下調査結果を紹介しておく。

  1. SDGs CONNECT.  《2021年 最新版》SDGsの認知度

  2. 電通 SDGsに関する生活者調査(2021年1月)

  3. 朝日新聞 SDGs認知度調査 第1回(2017年7月~2018年2月) 第8回(2021年12月)

厳しめの数値が出ている1.2.の調査でも、認知率が5割を超えたという。
ただし、内容の理解は今一つらしい。いかにも印象だけが先行しており、広告代理店などが奮闘した跡がうかがえるが、これはこれでチャンスだ。
自分でやっていることをSDGsを絡めて話題にしてもいいし、逆に聞いてみるのも良い。聞かれた側は嬉しいだろうし、少なくとも場持ちがよくなる。言い方は悪いが、何らかの前提を含んで動いている人ほど、前提を理解された時の安心感は大きいはずだ。
『MBAについて学ぶのは、MBA資格を持っている人に理解を求めるためだ』とは、古い友人のセリフである。ここまで認知度が上がった以上、何らかの交渉を進める際に、かじっておいて損はないだろう。

学生には、まず触れる程度に

大学教員としては、SDGsを持ち上げないよう努めている。
学生の前では、「最近流行っていること」として触れるレベルにしている。
かといって触れないこともない。まず考えて欲しいからだ。大人達が決めたルールだからと鵜呑みにはしてほしくない。自分の生活との関わりを考慮したうえで、何らかの実行に移してくれるといいだろう。理論武装に使ってくれてもいい。

もし、SDGsに大きく触れる場合があれば、かならず「誰一人~」「誰もが~」の話をしている。
自然に得られる権利で生きるだけではなく、SDGsを手段として使う権限を持つ者として、振る舞ってほしい。

やっていることを検証する物差しとして

SDGsは色々使える①、②の投稿で書いた通りだが、我々はすでにやっている、やろうとしている~の裏付けに使えばいい。
ただしこの時も、SDGsに合わせていくというよりは、身の回りの課題や自身が思い感じている事から企画するのが優先だ。

それでも、いい発案がなければ、SDGsの内容から始めてもいいが、あくまで国際ルール(いや、ルールでさえない)なので具体的な内容はそこまで書かれていない。
これについても、外務省がわかりやすいサイトを作っているので、紹介しておく。
SDGグローバル指標(SDG Indicators)

日本語は、6つある国連の公用語には採用されていない(状況からして、いずれロシア語が外されそうだが)。だから、意訳であっても自国語に直すのは、ドイツなどと同様、外務省あたりの職務になる。
国連が各国政府による負担つまり税金で運用されるため当然のことだが、自国民に理解してもらうとする努力に敬意を表したい。

終わりに

余裕があれば助け、なければ助けられる。そういった関係は、人と人の間、人と地球環境の間だけでなく、個人と国など公的機関との関係にもいえることです。
国連由来のSDGsについても、助け合いの道具として使える時に使っていけば良いと考えます。

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