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生きている時間

大人になればなるほど誰かの訃報に触れる機会は増える。直接会ったことのある人でも、メディア越しにしか知らない人でも。

生きている時間が少しでも重なっていたことを思うと、お会いできていれば、と悔しく感じる時もある。

文化人類学を学んでいた私にとっては、梅棹忠夫氏がそうだ。2010年に他界したこの方と生きている時間が重なっていたことを知ったのは、文化人類学と深く関わるようになってからのことだった。けれど、折に触れて梅棹氏の著書を読み返すたび、著書を通して彼の思いを受け取っているような気がする。

人も自分も生きている時間はそれぞれ限られている。直接会える、ということも貴重なことだし、直接会えなくても記録を通してその人の生き様に触れることもできる。

生きている時間で何をするか、何を遺すか。誰かや自分の生きている時間が終わっても、生きていた時間を遺すことはできる。あなたは、わたしは、何を遺すだろう。

ありがとうございます。いつかの帰り道に花束かポストカードでも買って帰りたいと思います。