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5月日記|ユーラシアの向こう側–光を追いかけて


■プロローグ

「Love is actually all around.」

日本から飛行機を乗り継いで25時間ほど。ロンドン、ヒースロー空港。子どものときから好きで、年末にはいつも観たくなる映画の舞台。人生2回目のヨーロッパ旅行はそこからスタートした。

イギリスへの入国手続きはあっけなく終わる。EU諸国やカナダ、オーストラリアなどといった国のほか、日本や韓国のパスポートを持っている入国者は、無人ゲートでパスポートを機械にスキャンさえすれば、すぐに入国できる。それ以外のパスポート保有者は、有人ゲートに並ぶ必要がある。映画やドラマで見るような入国審査の際のスタッフとのやりとりは、保有するパスポート如何によって、これからますますクラシックなものになっていくのかもしれない。

■1都市目・オックスフォード|小さな侵入者たち

Uberに乗り込み、高速道路をひた走る。迎えに来た車はトヨタのプリウス。見慣れた車種に異国で出会う奇妙な感覚。パキスタン出身だというドライバーに「中国人?」と聞かれ、「日本人」と答える。

乗り継ぎのドーハ・ハマド国際空港からは、いわゆるモンゴロイドの見た目の人はほとんど見かけなくなっていた。たまに目にする人も話しているのは中国語。住み慣れた日本、耳慣れた日本語から隔絶されていく感覚が、心細いのか心地よいのかまだわからない。

ロンドン郊外の親友宅にはあっという間に着いた。金曜夕方の帰宅ラッシュに巻き込まれるかと覚悟していたのに。イギリスの高速道路は無料だという。日本のような仰々しいゲートがないせいで、一般道に降りたのがいつかも気づかなかった。

コロナ中にオンラインで親交を深めた親友に直接会うのは2回目。1度目は数年前に日本で。今回は彼女が住むイギリスで。結構な頻度で連絡をしているものの、久々に生身の彼女に、しかも彼女が住む家の前で出会ったときの感覚は、なんとも言い難い。うれしくて、でも信じられなくて、うれしくて。

それから数日を彼女と彼女の家族と過ごした。日本語を勉強中の子どもたち––両親以外と日本語で話したことがほとんどない子どもたち––は、わたしに日本語が通じるか不安を抱えつつも、わたしが来るのを一日一日カウントダウンしながら待ってくれていたらしい。かわいすぎて悶絶しそうになる。最初こそ少し緊張気味だったものの、割と早くに打ち解けてくれた子どもたちは、毎朝のように私のベッドルームに侵入してくるようになった。

「Kise〜…Kise?おはよう〜」
「おはよ…う…まだ寝…る…(寝)」

「Kise〜、May I?May I?(ベッドに入ってもいい?)」
「いい…よ〜…(寝)」

ロングスリーパーな私を無理に起こすこともなく、しかしちゃっかりベッドの上のスペースを占領する子どもたち。バスで出かけるときや家で宿題をするときにも一生懸命にポケモンのことを話してくれる長男、日本語の絵本を読んでとせがんでくる長女、わたしが日本へのおみやげにと買った紅茶の箱をいつのまにか開封してしまっていた次男。

勉強家でチャーミングな両親のもと、すくすく育っている。子育てとは本当に偉業だ。滞在中、両親––2人とも同年代––ともたくさんのことを話した。朝のダイニングで、昼間のスーパーマーケットまでの道すがらで、夜のパブで。学生時代のこと、海外での暮らしや子育てのこと、日本のこと…まじめな話から他愛ない話まで、ただただ思いつくまま、時に沈黙もはさんで。

滞在最終日はイギリスらしいグレイッシュな空。別れを惜しみつつ、家の前まで迎えに来てくれたタクシーに乗り込む。再会がいつになるかはわからなかった。数ヶ月後か数年後か。でもまた会うのだろう。互いに自然とそう思える友人がいるのは、心強いことだった。

友人に限らず、「またいつか間違いなく会える。会いたい」と思える存在がこの世界にいるのは幸せなことだ。それは、家族だったり恋人だったり、人によっては行きつけのお店の店員さんや常連さん、よく行くジムのインストラクターさんかもしれない。熱烈に「会いたい!!」と渇望するするのではなく、じんわりと、しかし確かに再会を心待ちにできる相手。

■2都市目・ロンドン|ユーロスターの洗礼

ヨーロッパ旅行2都市目はロンドン。ホテルは『くまのパディントン』で有名なパディントン駅の近く。「世界一有名なくまって、パディントンだっけ。それともくまのプーさんだっけ」。そんな疑問が頭をよぎる。おそらくは後者なのだろうけれど、統計をとってみたら違うかもしれない。

ホテルで出迎えてくれたのは、中東系の風貌の男性だった。

「残念ながらエレベーターはないんだ。ただ、広めの部屋を用意しておいたよ」

エレベーターが、ない。部屋は5階。私の顔に一瞬よぎった絶望の色を読み取ったのか、男性は手伝いを申し出てくれた。それでも自分で持てないこともない。それに重い荷物を持ちながら階段を登るなんて、映画でよく見るシーン。これは一度は体験しなければ。スーツケースを引き上げつつ、休み休み階段を登る。「ふう〜!!」と、思わず声が出る。黙々となんて登っていられない。たどりついた部屋は、確かに広々としていた。

うっそうとした曇天のイメージが強い国なのに、ロンドンでも青天に恵まれた。5月ということもあるかもしれない。まぶしい太陽のもと、空高く威風堂々とそびえるビッグ・ベン、ウェストミンスター寺院、大英博物館…。ロンドン名物「Tube(地下鉄)」を駆使し、1日かけてロンドン市街地をめぐった。どの建物も贅を尽くしているのは間違いないはずなのに、同時に荘厳さも感じる。なるほど、これが帝国・・か、と心の中でひとりごちる。

存分にロンドンを味わったあとは、ユーロスターでパリへ。出発時刻より2時間は早く駅に着いたことに油断していたら、痛い目に遭った。イギリスからフランスへ行くということは、EU域外からEU域内へ入るということ。当然、入国審査や手荷物チェックが必要になる。そのことを知らずにいた私は、予定していた便に見事乗り損ねたのだった。

1回なら乗車時刻の変更が無料なのにかこつけて、変更してしまったのがいけなかった。追加料金は約44ユーロ(約7,500円)。スタッフのお姉さんに、「あの〜、やっぱ払うんだよね…?(払わなくてもいいってことにならないかな…)」とおそるおそる確認すると「そう。払うのよ」とキッパリ言い返される。泣く泣く高い勉強代を支払った。これからユーロスターを利用する方は、十分に時間に余裕を持っていただきたい。

■3都市目・パリ|助けること、助けられることについてのひとつの考察

ユーロスターでたどり着いたパリは夜の21時。5月のヨーロッパはこの時間でもまだ明るい。そのことに新鮮な驚きを覚える。映画などで春夏の暗い夜のシーンを見ると、日本の感覚だと19時以降くらいだが、ヨーロッパの感覚だとだいたい21時以降なのだろう。随分と違う。

行きと帰りの飛行機のチケットしか予約せず、ヨーロッパ滞在中の予定はその都度決めるというスタイルのせいで、パリでは見事、現地の五連休にぶつかった。かの有名なルーブル美術館もチケットは取れず。とはいえ建物を見るだけでも見応えは十分。思ったよりがっかりしなかったのは、ちょうど昨年、国立新美術館で開催の「ルーブル美術館展」に行っていたからかもしれない。「サモトラケのニケ」の本物を見れなかったのはちょっぴり残念だったけれど。

パリではピクニック三昧。突然の訪問にも関わらず歓迎してくださったパリ在住の方と娘さんと3人でチュイルリー公園で。ケ・ブランリ美術館やエッフェル塔、凱旋門をめぐったあと、1人モンソー公園で。ワインとチーズ、生ハムやスモークサーモンにバゲット、果物。パリのとっておきのごちそう。

異郷に長く住んでいるからこそ身につく、あるいは身につけざるを得なかった「暮らし方」と、その土地の「味わい方」。生活するうえで痛感する、せざるを得ない無数の想い。そういったものを私は今までたくさん教えてもらってきた。単にお金を払うだけでは、単にその土地に身を置くだけではわからない、数々のこと。解放感と疎外感、未知への興奮と郷愁、異邦人だからこそ抱く希望と絶望。国境を越えて生きるたくさんの友人・知人たちほどではないが、いわゆる「自国」に生きていても似た感覚を味わうことはある。

たとえば東京。人生の1/3以上を過ごしている街。仕事も親しい人たちもお気に入りの場所も多くはそこに存在し、自宅はまさに「自分の城」。それでも不意に所在なさを感じることがある。血縁が近くにいないせいなのか、あるいはせわしない大都市の空気がなせるわざなのか。

ふるさとの訛りなつかし
停車場の人ごみの中に
そを聴きにいく

石川啄木を持ち出すまでもなく、古くから人はふるさとを離れ、異郷の地で生きてきた。

「我々は皆、移民である」

生まれ育った土地を離れ、国内外で研究をしながら長く東北に暮らす恩師はそう言っていた。日本では、外国ルーツの人に対してのみ「移民」という言葉を用いることが多いが、生まれ育った土地を離れて暮らすことの困難は自国内でも存在する。困難さは認識されなければ、支援の対象とはならない。支援が必要かどうかは別として。

制度としての支援がなくとも、人が人を助けることで回ることも多々ある。たとえば、エスカレーターの少ないロンドンの地下鉄。ベビーカーを持って立ち往生する親子を見知らぬ人が助けるのは当たり前らしく、私自身何度もそんな場面に遭遇した。

「この国はいろいろ揃ってないけど、その分、人がカバーするの」

イギリス在住の親友の言葉はパリでも身に染みた。次なる目的地・ミュンヘンまでの高速鉄道。パリの乗車駅でチケットのQRコードを機械に読み込ませようとするも、なぜか他のアプリが起動してしまい、うまくいかない。後ろには長蛇の列ができる。東京だったら、ものの数分、あるいは数十秒でイライラとした不穏な空気が漂ってくる(あるいは単に私自身が余裕なく暮らしていたのかもしれない)。焦る私に、後ろに並ぶ乗客たちから次々とアドバイスが寄せられる。

「スマホの画面が暗すぎるんじゃない?」
「隣のゲートならうまく行くかもよ」
「スタッフの人に直接確認してもらうとか?」

今回の旅行中、人に助けられたのはこの時だけではなかった。というより、私は毎日のように人に助けてもらっていた。それぞれの都市で出迎えてくれた旧知の人たちだけではない。行きの飛行機で知り合い、旅先のオススメ情報を教えてくれたお姉さん。駅の改札で、チケットが使える路線を教えてくれた駅員さん。立ち寄ったお花屋さんで、「次はどこ行くの?え、そこ?電車なんか乗らなくても20分くらいで歩いていけるよ!街を楽しんで!」と笑顔で送り出してくれた店員さんたち。

どの地域にも東京と似た「わたしはわたし、あなたはあなた」という空気感はあったのだけれど、訪れた欧州の各都市では「わたしはわたし、あなたはあなた。でも何かあったらよろしくね。あなたに何かあったときはわたしも助けるから!」というような軽やかさを感じた。東京では「わたしはわたし、あなたはあなた。あなたに迷惑はかけない。その代わり、どうかあなたもわたしに迷惑をかけないでね!」という、ある種拒絶感にも似たものが漂うときがある。

だからだろうか、日本で家族や親しい人以外に助けを求めるのは私は苦手だし、そもそも人に助けを求めることはハードルが高い。気軽に助けを求め合える環境の方が生きやすい気もする。とはいえ、ゆきずりの旅人の立場で見えたものは、きっと各地の一部分でしかない。駅や空港でよく見かけた物乞いやホームレスの人たちに象徴されるように、その社会にも格差や断絶は確かに存在している。

■4都市目・ミュンヘン|無言の叫び、春の癒し

パリからミュンヘンへは、高速鉄道を乗り継いで6時間ほど。

「リアル『世界の車窓から』だ」

iPhoneで「世界の車窓から」のテーマ曲を流しながらそんなことを思う。窓の外の景色は平野からだんだんと山々になり、生い茂る緑の色も変わってゆく。

ミュンヘンではこれまた現地在住の方とお会いできることになっていた。そして、大きな目的が一つ。それは、ダッハウ強制収容所跡を訪ねること。大学時代、ダークツーリズム*を専攻していた身として、どうしても外せなかった。

*戦争や災害など人類の負の側面に着目する観光。日本では原爆ドーム、あるいは東日本大震災被災地など。

たどり着いたミュンヘンは気持ちの良い青空。私が来る少し前ではくもりだったそう。5月とはいえ、訪問する各地でこうも好天が続くなら、晴れ女を名乗ってもいいかもしれない。お世話になっている方の案内でミュンヘンの街をめぐり、ビアガーデンへ。グラスのサイズは当たり前のように1リットル。グラスが重すぎて腱鞘炎になりそうだった。ここ数年でやっとビールを飲めるようになった身として抱いた「1リットルなんて無理なのでは…」という心配はまったくの杞憂だった。

結局、ビアガーデンからバーへハシゴ。心地良い酔いとともにAirbnbの宿までの帰り道にふと見上げた夜空は、びっくりするくらい真っ黒だった。東京で見る夜空は色が濃くてもせいぜい濃紺。だが、目の前のミュンヘンの夜空は吸い込まれてしまうようにどこまでも黒い。その黒地のキャンパスの上に北斗七星が瞬いていた。これほどまでに真っ黒な夜空があることをわたしはそれまで知らなかった。いつかどこかで、この夜空をまた思い出すのだろう。

翌日もほとんど雲ひとつない快晴。サングラスをしていなければ、目が痛いくらいだ。木々のあいだを吹き抜けていく風が気持ちいい。ダッハウ強制収容所跡までは、ミュンヘン中心部から電車やバスを乗り継いで1時間ほど。これから目にするであろうものを想像すると少し身がすくむ。パリからミュンヘンまでの列車の中で見た景色––どこまでも続く平原、花畑、豊かな森、青空––はどれも美しかった。かつてこれらの土地で凄惨な出来事が繰り返されたことが信じられないくらいに。

最寄りのバス停から緑あふれる小道を進んでいくと、建物が見えてくる。強制収容所の門に掲げられた、かの有名な標語。

ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)

広大なグラウンドでは、毎日のように収容者が整列させられていたという。「効率重視」を絵に描いたような何段・何列にも連なる狭いベッド、必要最小限の機能だけを備えたトイレや洗面台。罰則に使われた道具、毒ガスの「シャワー室」、人を焼くための焼却炉。人々をスムーズに処理・・するために無駄・・なく設計された数々のもの。

5月の突き抜けるような青空の下、無機質な物体たちのどれもが雄弁に生者に語りかける。もしこれが荒天の、あるいはもっと寒い季節の訪問だったら、今以上に絶望的な気持ちになっていたに違いない。私は黙って白い砂利道の上を歩いた。語るべき言葉は、何ひとつ持ち合わせていなかった。

宿に戻り、ゲストルームのベッドに倒れ込む。心身ともに疲れ果てていた。ダッハウでざらざらとした砂利の上をひたすら歩いたせいで、泣きそうなほど足が痛い。目にしたものから受け取った強烈な記憶や無言の叫びが、頭のなかを目まぐるしく駆け回っている。お腹もひどく空いていた。最寄駅近くのスーパーで買ったドライフルーツを口に含む。凝縮された甘みに、気持ちも少しずつ解けていく。

スーツケースの横には、昨日市場で買った0.5キロ分のホワイトアスパラガスがある。ヨーロッパの春の風物詩。小説やエッセイでよく描かれるそれをどうしても食べてみたくて、1キロ単位で売っているお店が多いなか、0.5キロから売ってくれるお店で買ったのだった。Airbnbのホストからも「キッチンもなんでも自由に使って」と言われている。スーパーではミュンヘン名物・白ソーセージも買ってきた。とにかく、食べよう。

ベッドから起き上がり、キッチンへ向かう。19時前だというのに、日本の昼間のように明るい。ラドラーを片手に、ホワイトアスパラガスの皮を剥く。皮は食べないけれど、一緒に茹でると味が出て良いスープができるらしい。いい具合に茹で上がるまでひたすら待つ。タイミングを逃すと好みの固さより柔らかくなってしまうから、集中力が必要だ。

茹で汁がほんのり色づいてきたところで、味見。姫竹に似た味がして、ほっとする。大陸の西でも東でも春の味には共通点があるらしい。アスパラガスが少し柔らかめ、でも柔らかめすぎない程度に茹で上がったところで、白ソーセージを焼く。太さがかなりあるので、生焼けにならないように、でも焦げないように慎重に焼き加減を見ながら待つ。

夢中で料理しているうちに、ダッハウで千々に乱れた心はいつのまにか凪いでいた。

■5都市目・バルセロナ|美しさを超えた場所

ヨーロッパ旅行の最後に訪れたのは太陽の沈まぬ国、スペイン。レコンキスタの果ての地であり、コロンブスを支援した地でもある。その中でも海沿いの街・バルセロナを世界に知らしめているのが建築家・ガウディの建築群だ。

サグラダ・ファミリア、カサ・バトリョ、カサ・ミラ、グエル公園。彼の作品を目当てに世界人からたくさんの観光客が押し寄せる。彼の、というよりは彼と仲間たち、そして彼の後継者たちの、とでもいうべきか。

1882年の着工から140年経っても未完のままだったサグラダ・ファミリアも2026年には完成するらしい。いつかは見たいと思っていた、サグラダ・ファミリア。完成前の状態もこの目で見たい。その一心で訪れたその建物は、地下鉄サグラダ・ファミリア駅のすぐ目の前に鎮座していた。あまりにもあっさりと出会えてしまったので面食らう。「目的の建物がすぐ目の前にある」駅世界選手権でもあれば1,2位を争う勢いだ。

専用アプリに事前ダウンロードしておいたオーディオガイドをつまみ聴きしながら、19時過ぎの入場時刻まで教会の周りを散歩する。19時過ぎの予約にしたのは、ステンドグラスに夕陽が差し込む時間を狙ってのこと。サグラダ・ファミリア訪問当日も晴天に恵まれ、訪れたすべての都市で太陽の恩恵を受けた私は、そろそろ本気で晴れ女を名乗れるのでは?と調子に乗りかけていた。

教会はやはり大きい。でも思ったよりコンパクトな気もする。教会の周りを一周するのに、早歩きであれば20分もかからなかった。手荷物検査を済ませたあとで、いよいよ大聖堂の中へ。

息を飲む、どころではなかった。言葉を失う、どころでもなかった。あまりにも美しい、その空間。色彩。光。美しすぎるものを目の当たりにすると、人はどうして泣きたくなるのだろう。聖堂の片側は暖色中心、もう片側は寒色中心のステンドグラスで彩られ、アイボリー色の石柱が聖堂全体を支えている。まるで『風の谷のナウシカ』の腐海の底にいるような気持ちになる。

腐海の底は、風化して石のようになった大木が立ち並ぶ場所。ガウディは木々の幹にインスピレーションを得て聖堂の柱を設計したというから、この既視感もあながち間違っていないのだろう。

一日中でもいられそうな居心地のよい空間で、文字通り時間を忘れ、ただ過ごした。空間そのもの、そしてそこに訪れる人々の表情を眺めながら。わたしは、すばらしいものを見聞きするのと同じくらい、すばらしいものを目の前にした人の反応を見るのが好きだ。無言で立ち止まる人もいれば、歓声をあげてはしゃぐ人もいる。1人の人もいれば、団体の人たちもいる。人々はここで見たもの感じたものを、このあと誰に伝えるのだろうか。どんな時に思い出すのだろうか。

■エピローグ

早朝の羽田空港。飛行機の遅延で、実に4回も飛行機を乗り継ぎ、約2週間ぶりに戻った東京の朝日は目に痛いほどまぶしい。遠くにスカイツリーが見える。日本に戻ってきた人たち、これから日本を旅するであろう人たちそれぞれを乗せて電車は都心へと向かう。東京の街は懐かしいはずなのに、今はまだどこか見慣れぬ存在にも思える。

家に着いたらまずは、あったかい湯船に心ゆくまで浸かりたい。そして自分のベッドにダイブして、時間を気にせずまどろみたい。愛すべき我が家。帰る場所。わたしが思う存分気ままに旅をできていたのも、すべては帰る場所があるからだ。帰りを待ってくれている人たち。この旅のことを話したい、聞いてほしいと思える人たち。

5月の太陽は、東京でも明るく輝いていた。

(終)



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