お賽銭に10円玉を入れてはいけない理由
わたしの最近のマイブームは寺社仏閣を巡ることだ。
以前の記事で、パワースポットで出会った(見かけた女の子)の記事を載せたが、それ以来気持ちがざわつくときには寺社仏閣に足を運んでいる。
わたしのお気に入りの場所
わたしのお気に入りは、ベタかもしれないが、明治神宮だ。
駅のすぐ横、竹下通りも目の前、若者や外国人が往来するその喧騒の中、急に現れる巨大な鳥居。漆塗りがされていないというのも渋くて良き。
一礼してその鳥居をくぐった瞬間に、先程までの喧騒が嘘みたいに思えるほどの自然に包まれる。
電車の音も遥か遠く、聞こえるのは風に吹かれて擦れる葉の音。
このちぐはぐさがたまらなく、いい。
梶井基次郎も、その名作『檸檬』で言う。
「あまりに尋常な周囲を見廻すときのあの変にそぐわない気持」
わたしが授業で高校生たちに話した例は、
映画を見終わった後、ものすごく感動なり興奮なりして映画館を出ると、そこには普通の日常が広がっている。そのギャップ。
明治神宮の話に戻る。
『檸檬』の引用は、ここでは少しズレている気がするが、要は自分が今感じている気持ちと、その外側のギャップに気持ちよさを感じるのだ(書き方よ、、)
森を抜けると、目の前に立派で荘厳な空間が広がる。白い。急に語彙力なくなるじゃんって思うかもしれないが、実際行って見て欲しい。白いから。
参拝のルールとは?
お賽銭をゆっくり入れ、二礼二拍手一礼。あー、小銭ない、、10円てまずいんだっけ??だったら、「十分いー縁」ってことで11円で勘弁してもらおう。
自分の気持ちや意志を、拙い言葉で神様に伝える。
今自分がなにを目指しているのか、なにに焦っているのか、どうしてほしいのか。
言語化するのはなかなか難しい、、
神様に伝えることも伝えたので夫婦楠(めおとくす。名前がかっこいい。ポケモンの名前みたいで)を崇める。良いご縁がありますように、、
お賽銭に10円を入れてはいけない理由
そのとき、若い女の子たちの会話が耳に入った。
「10円はダメだよー!縁が遠のくんだよー!」
そうなの!?!?
あ、でもわたしは11円だからセーフ、、なのか、、??
てか、縁が遠のくて、、!!
ダジャレかよ!!
5円の時点で!!ご縁がありますようにて!!
ダジャレじゃん!!
神様もそれで「ダジャレだなんて、粋だねぇ。よし、君のお願い、叶えちゃう!」とはならんだろう。
そこでふと思った。
すべての事柄は、自分にとって都合よく捉えられてるんだ。
都合の良い解釈をするよ!!!!
4月末に珍しく2連休があった際、なにをしようか考えた末に京都に一人旅した。(後日記事書きます、、)
究極の寺社仏閣巡りである。
1番の目的は鈴虫寺こと華厳寺に参拝することだったのだが、がめついわたしはそこに行くまでの寺社仏閣という寺社仏閣で結べる縁を全部、固結びで結んだ。
切りたい悪縁も全部千切りにしてきた。
そして目的の鈴虫寺の説法では、「幸せかどうかを決めるのは、天気でもこのお寺の混み具合でもなくて、自分の心なんですよ」といった話を聞いた。
それを、ふと思い出した。
多分、お賽銭の額なんていくらでもいい。
でも、きっと5円を入れた方が「良いご縁」があったときに素直に受け入れられる。「良いご縁」がなくてもなにも思わない。
逆に10円を入れてご縁が遠のいたら「やっぱりあのとき10円入れたからだ、、」ってなるだろうし、ご縁が遠のくことに震えながら生活しなければならなくなる。良いご縁があったところで「このご縁、、遠のくかも!!」とすら思ってしまうだろう。
恐るべし、ダジャレ。
結婚式の「仏滅」やら「大安」やらもそうだろう。
幸せは自分の気持ちが決める。
それでも、すがりたい気持ちもある。
自分の力で幸せになるには限度がある。
高次元の何者かのおかげで幸せになりたい。
すがった方が、気が楽になれるのも事実だ。
言葉に呪われることもあるし、見えない何かに救われることもある。
でもそれをどう捉えるかは自分の心次第だ。
縁が遠のくのも、十分縁があるのも、決めるのは自分だ。
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