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掌編小説 「てのひらの」

 それはほんの偶然だ。

 小さな台所のシンクの前に立って、落ち着こうとして、震える手で無意識に掌の中の小さな画面をいじっていた。眺めているだけで読んでなどいなかった。なのに、小さな画面にもう何十年も思い出すことのなかった彼女の名前をみつけた瞬間、時間と空間は一気に遡った。

 一緒に自転車で並んで走った海沿いの道。
 中学の放課後のざわめきと体にまとわりつくあの頃に特有の空気。
 溶けて流れたアイスクリームの甘い匂い。
 
「誰とつきあいたい?」
「えー悩むけんど、慎吾くんかなあ」
「SMAPなら木村拓也じゃろう」
「でもやっぱりレオ様がええな」
「英語喋れんじゃん」
「タイタニックめゃくちゃかっこよかったわ。泣いたわー」
「外人もええなら、ブラッドピットかな」
「ああ、セブンこわかったけどよかった」
「ちいと前のリバーランズスルーイットの時が美しいんじゃわい」
「確かに!ああ、迷うなあ、決められん」
「いや、別にしんからつきあえるわけやないけん決めんでええし」
「そうなん?」
「そりゃそうじゃろ」
「今はまだこんな島におるけんど、東京の大学行ったら、スカウトされてしまうかもしれんわい」
「あり得ん。大学って何年後?ていうか、東京の大学行くの?」 
「行きたいじゃろ?」
「行きたい!」
「一緒に原宿でクレープ食べよう」 

 何があんなに楽しかったんだろう。涙を流すほど笑い合いながら、いつまでも帰りたくなくて、このまま時間が止まってしまえばいいと思っていた。なんにも知らなかった。けれど自分はまだ何も知らないということを知っていて、早くいろんなことを知りたいなんて言いながら、本当はずっとこのままでいたいとも思っていた。そんな時間がどれほどあっけなく過ぎ去り、もっと刺激的で楽しいことが次々出てきて、大切なものはどんどん変わっていき、そのうち何が大切なのかもわからなくなってしまう。そんなこと知らずにいたはずなのに、それでもどこかで感じていて、それであんなにも帰りたくなかったのかもしれない。

 あれから二十年以上経った今を、あの頃の私たちが見たらどう思うだろう。
 
「早う結婚して家出たいなあ」
「なんで?」
「親から愛されてないけん」
「そんなこと・・・」
「思春期の思い込み思うじゃろ」
「そういうつもりやないけど」
「妹だけがかいらしいんじゃわい。そういうの、ドラマだけじゃのうてしんからあるんぞな。でもしょうがない。うちゃかいらしゅうないけん」
 
 あの頃、まだスマホなんてなくて、一部の大人が携帯電話を持つようになったくらいで、だから中学生の私たちが家に帰ったらもう友達と繋がる方法はなかった。家の電話はたいがい親が出るから面倒くさいし、長電話してると電話代がかかると怒られる。だから、放課後の教室や帰り道にある公園のブランコに座っていつまでも喋っていて、日が暮れて早く帰らなきゃ叱られると思いながらもなかなか帰れなかった。
  
 今の子たちは、寝る間際までチャットしたり話していたりするのかな。羨ましい気もするけど、今ここでしか繋がっていられない、という切羽詰まったあの感覚は、それはそれで懐かしくいとおしかったりする。芸能人や気になる男の子の話とか、先生や校則への文句とか、くだらないことをたくさん話して笑って、時々ぽつっと家に帰りたくないとか将来が不安だとかなんてことを口にしたりして。そんな話題は今の子も変わらないのだろうか。子供のいない自分にはわからない。
 
 掌の中の画面に触れるとページが変わって、同姓同名の人違いかと思うほど面影を探すのが難しい今の彼女の写真が映った。おどけてアイスクリームのコーンを下からかじって、そこからダラダラ流れ出したクリームで両手をべとべとにして笑い転げていた彼女の幼く丸っこかった無邪気な顔はそこにはない。そこにあるのは、無表情で化粧気のない青白い顔をして傷んだ髪を一つに結んでいる、交際相手を刺して自分も死のうとした四十才目前の女の顔だ。五才と三才の連れ子を守るために暴力を振るう男を刺したと書いてある。
 
 別の高校に進んだ私たちはあっという間に疎遠になった。彼女は急に派手になって、バイト先で知り合った彼氏の家に入り浸って、卒業前に子供を産んだと噂で聞いた。その後、私は東京の大学に合格して松山を出た。年に数回帰省するくらいになってもう二十年がたち、噂すら聞くことはなくなっていた。

 その間に世の中はずいぶんと変わった。パソコンやスマホの中に居場所が作られ、あの頃遠かった欧米やアジアをはじめとした世界がぐんと近づいて、かつては知るよしもなかったおしゃれな生活をする人やこだわりの暮らしをする人やキャリアを積む女性や世界で活躍する人たちなんかのことを目にする機会が増えて、価値観も生き方も多様になって、だけどそのぶん自分自身がどんな人間でどう生きたいのかどう生きられるのかわからなくなって、居場所も生き方も選択肢が増えたようでいて、でもどこにもうまく収まれなくて、日々の情報に翻弄されて混沌として、そんな中ですっかり取り残されてしまった。

 彼女は、どんな人生を送ってきたのだろう。
 
 最初の子供はもう成人しているはずだ。守ろうとした子供たちは別の人との子なのか。そしてその相手ともまた違う別の男を刺して、自分も死のうとしたのか。一体どうしてこんなことになったのか。男も彼女も一命は取り止めたと書かれているが、子供たちはどうなるのか。彼女はこの先どうするのか。
 
 そして、私はどうするのだろう。
 
 十年以上続けてきてしまった報われない関係。子供を産むのも簡単ではない年になってしまった。彼女が何人もの男とつきあい、子供を産み、別れを繰り返してきた間に、私は昇級も昇進もない仕事を淡々と続け、彼とだけつきあい、結婚も出産も経験しないまま、容姿も体力も時間と重力に逆らうことなく従順に衰えた。
 
 風呂場からはずっとシャワーの音がしている。
 
 私と過ごしている間に彼は部長になり、二人の子供を作り、家を買い、そして今、私と別れようとしていた。
 
 もう一度、掌の中の画面に映る彼女を見る。よく見ればわずかにあの頃の面影がある。よく笑っていた大きな口。ぽってりとした唇。

 写真から視線をそらし、反対の掌で使い込まれた古い包丁を握る。今日ですべてを終わらせようと思っていた。

 掌の中の彼女をもう一度見る。

 ゆっくり目をつぶる。

 夕方の潮風の香り、ブランコを漕ぐ音、ミカン畑の向こうに広がる海、溶けたアイスクリームの甘ったるい匂い、だんだんと暮れていく空の色、いつまでも終わらないお喋り・・・
 
 シャワーの音が止まった。 

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