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小説「君が咲く場所」①

フェリーを降り、散り散りになる乗客を見送っても叔父の正人は港に姿を見せなかった。ここでの日々に少し期待してやってきた身としては、しょっぱなから、置かれたこの状況に若干冷や汗が出た。達矢はこの春、中学3年生になったばかりだったが、一人でこんな遠くへきたことはなかった。東京から新大阪まで新幹線に乗り、電車を乗り継いで大阪港へつき、そこからフェリーに乗って徳島までやってきたのは、達矢にとって一世一代の大旅行であった。フェリーから降りた時のあの安堵感はどこへやら、重いリュックを降ろしても、不安と寂しさで体がだんだん重くなった。待合所で諦めたように座っていると、フェリー会社の職員らしき男がやってきて、
「あんた、藤山達矢くん?叔父さんの春日正人さん、ちょっと急用でこれんようになったけん、自分で家まで来てくれって、さっき電話があったでよ」
と一方的に喋って去っていた。途方にくれてまわりを見る。待合所の隅にあるご当地スタンプ押印用の机の上に、町の地図が数枚おかれていたのを見つける。それをポケットに押し込んでバス停に向かった。とりあえず、徳島駅まで行こう。そして、正人の住む町まで行こう。背中の荷物の重さに耐えながら、達矢は歩き出した。

まだ5月だというのに、風鈴の音が鳴り響いている。たまに、大きな風が吹くと、狂ったように鳴り響くので耳障りではあるが、わかりやすくていいと達矢は思った。左手の封書を握りしめる。達矢の真横を、爆音を立てながらバイクが走る。後ろに乗った女の子のスカートがめくれ、太ももが露わになる。バイクの排ガスも風鈴同様、坂の上からの風がどこかへ連れて行ったが、やけに白い太ももだけは達矢の目に残った。
「なに世界の終わりみたいな顔しとーん?」
やや苔むした古い塀から、日焼けした黒い顔が見える。
その顔を見るなり、達矢は大きく息を吐いた。
「もう、叔父さん、ちゃんと迎えに来てよー。」
「ごめんごめん。車が急に故障してしもて。もう、なおったけん、どこでも行けるぞ。」
「もう、遅いよ。」
母の葬式で会った時と同じ明るい笑顔がそこにあった。叔父の正人は達矢の背中からリュックを取り、片手で担いだ。正人の家の庭に入ると、白い花びらに、ほんのり青みがかったあじさいが咲いていた。
達矢はしばらくそれに目を奪われた。
「あじさい、きれいやろ。おっちゃん、花育てるの好きなんよ。」
「母さんの浴衣の柄に似てる。」
「ああ、姉ちゃん、そんなん持ってたなあ。姉ちゃんも花が好きだったけんなあ。」
「うちにも昔咲いてたよ。でも、6月に入ってからだったかな。ここのあじさいは気が早いんだね。叔父さんと違って。」
「だから、迎えにいけなかったのは車が故障したんやけん仕方ないでぇ。そろそろ許してよ。今夜、焼肉やし。」
「本当?俺、手伝うよ。」
達矢は、正人の後ろについて家に入った。

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