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乃木坂46を解き放て!

2022年、最初のnoteです。張り切っていきましょう!

2021/12/31に生田絵梨花さんが乃木坂46を卒業しました。これにより、昨今は「生田絵梨花の抜けた穴を埋めるのは誰か」というテーマのweb記事が散見しています。

この「〇〇の抜けた穴を埋めるのは誰か」や「乃木坂46の次世代エースは誰か」という、つまり「ポスト〇〇」を問う文脈の記事は白石麻衣さんが卒業した当たりから度々見受けられました。その後も依然としてこのような記事は公開され続けています。

白石麻衣さんが卒業したあたりに僕は、このような内容の記事に疑問を呈するnoteを公開しました。そのnoteでは、「ポスト〇〇」という概念に囚われると乃木坂46は衰退してしまうと結論づけています。

そのような意見をもつ僕は、メディアの影響により、世間が乃木坂46に対して「ポスト〇〇」を問う潮流が徐々に生じ始めているであろうことに危機感を覚えています。

この危機感に駆られ、今回は改めて「ポスト〇〇」を問う文脈の記事に対する反論や「ポスト〇〇」という概念が如何に堕落したものかということをアウトプットしていきます。

なお、残念ながら芸能人や芸能グループの人気は衰退しやすいものであり、生き残っていけるのはほんの少数でしょう。人気者になるよりも人気者であり続けることのほうが難しいのです。たとえ世間に「ポスト〇〇」を問う潮流が無くとも、乃木坂46の人気はいずれ低下してしまうかもしれません。

しかし、僕は乃木坂46が大好きであり、乃木坂46のメンバーには幸せになってほしいと思っています。故に、たとえ乃木坂46の人気が衰えてしまう未来が訪れてしまうとしても、それを少しでも遠いものにしたいです。

そのためにも、「ポスト〇〇」という概念に囚われると乃木坂46は衰退してしまうという主張とその対案を発信し、そのような未来を遠ざけることに少しでも寄与し続けていこうと考えています。


メディアの策略を考察してみる

まず考えてみたいのは、なぜそもそもテレビやニュースサイトのような大手のメディアは「ポスト〇〇」という概念に固執し、それを問うような記事を公開し続けているのかということです。

僕の見解としては、メディアのビジネスモデルこそがその体制に大きく起因していると思います。

メディアの根幹にあって最も基本的な収入源は広告料であり、彼らの業種を究極的に表現すれば広告業と言えるでしょう。

テレビ局で例示すれば、まず高い視聴率を獲得できるであろう番組を制作し、その放映にCMを載せて広告主の商品を発信します。そして不特定多数の人間がそのCM=広告を見て商品の存在や利点を認知したり、購入したりします。当然ながら視聴率が高いほど広告主の商品は世に広まりやすくなります。

だからこそ彼らは少しでも高い視聴率を獲得することにこだわり、その数値を広告塔としての優秀さや費用対効果の高さとして広告主にアピールします。

web記事も基本的には同じような構図です。少しでも多くの人に見てもらえる記事を制作し、その記事にバナー広告等を載せています。web広告はテレビCMよりも高機能であり、コンバージョンやエンゲージメントという指標があります。その記事がきっかけで商品認知や購入に至ったのかどうかを比較的高い信憑性をもって計測することが出来ます。

これにより、広告主に提示する数値にも、テレビCMの視聴率よりも高い信憑性が帯びることになります。

このようなビジネスモデルであれば、多くのメディアは「自分達の番組やwebサイト等の看板を如何にして多くの人に見てもらうか」ということを追求する様子が想像できます。

そして自分達の広告商材を多くの人に見てもらうために、世間の注目度が高い、もしくは高くなるであろう人物や出来事をその題材に選択することになります。

当然ながら乃木坂46はそのターゲットにされています。なおかつメディアは、乃木坂46のなかで比較的人気が高いメンバーを題材に取り上げることで、自分達の広告商材の価値をより高めようとするのでしょう。

これこそがメディアの絶対的エース、つまりは「誰もがエースと認めるメンバー」を決めつけたがる姿勢です。

これにより、世間には「この人が乃木坂46のエースだ」や「乃木坂46といえばこのメンバー」という印象が植え付けられます。するとますます比較的人気が高いメンバーに人気が集中することになります。

そしてそのメンバーを番組や記事に登場させれば、自ずと広告商材の価値と費用対効果も上がることになり、売上獲得に繋がります。まとめると下記のサイクルが存在しているということです。

 1.比較的人気が高いメンバーを広告商材に起用する
 2.広告商材の視聴率・閲覧数と、そのメンバーの人気が高くなる
 3.自社の広告商材の価値向上
 4.より高い売上を獲得
 「1」に戻る

なるほど、このサイクルの構造から見れば、広告業を営むメディアにとって「エース」というものは非常に都合の良い存在ということですね。極端に言ってしまえば、メディアにとって有名人とは売上獲得のために駒に過ぎないのだと思います。

エースを決めつけたがるメディアの理論・言い分は営利事業者の主張として大いに理解できます。また、ビジネスとして誰かに価値提供を行って幸せにしたり、経済を動かして社会貢献したりしている現状もあるため、悪と断定して全否定することは出来ません。

メディアが取り上げるからこその人気というものは確実にあります。メディアが題材に取り上げれば乃木坂46の人気を保持・助長させる効果が生じるので、必ずしも敵視できるわけもなく、感謝すべき点もあります。しかし僕には良い印象をもてないジレンマも同時に生じています。

公共の電波を利用して情報を発信するからには、公共性を維持するためにもその情報はフラットで公平なものである必要があります。であれば「2022年の活躍が期待できるメンバー」や「乃木坂46の次世代エースは〇〇だ!」なんて記事は、特定のメンバーしか取り上げておらず、もはや偏向報道と言っても過言ではないようにも思います。

本当に公平な情報を発信するなら、全メンバーの魅力や期待できる点をいくつかの記事に分けて発信すれば良いと思います。そしてメンバーを取り上げる順番は、人気が高い順に公開しているような体制を想起させるものではなく、名前のあいうえお順等のように、記事公開の順番に誰かの恣意的な意思が介在していないということが分かる基準を敷くのが良さそうです。

「乃木坂46」というキーワードを用いて大手のメディアが情報を発信すれば、起用するメンバーの人気やテレビ・web記事の媒体形式に関わらず、それなりの視聴率・PV・コンバージョン・エンゲージメントを獲得できるでしょう。であれば「乃木坂46」というキーワードと併せて全メンバーを公平に扱い、乃木坂46のファン全員が幸せになるような方法で情報を発信してほしいと思います。

限られた時間や資材のなかでより高い売上を獲得するために、どうしても効率を求めてしまうことは理解できます。また、乃木坂46に限らず世の中の変化全てを報道すべき情報として扱おうとそれば、そんなものは無限にあって捌ききれないため、報道する情報は取捨選択せざるを得ません。このあたりの事情は想像できます。

しかし同時に、公平性が強く求められることを理解してその事業を営んでいる以上、特定のメンバーだけを起用し続けている現状は改善すべき状態にあると言わざるを得ないと思います。

昨今は「2022年の活躍が期待できるメンバー」という文脈に沿って遠藤さくらさんや賀喜遥香さんの名前がよくweb記事で見受けられます。SEOの観点から観てもこの二人の名前を取り上げることは非常に強い効果があるでしょう。

先輩の卒業が相次いだこの時期にそのような記事を大手のメディアが公開することで、「次世代エース」という概念が世間に漂い始めている節を感じます。

メディアが、20歳になったばかりの少女達に公共の電波を使ってそんな重い責任を押し付けようとしているような印象を受けてしまい、僕は彼女達が不憫でなりません。だからこそ、それにめげずに頑張る乃木坂46を応援したくなります。

なにより僕は、そんなしがらみから乃木坂46を解き放ってほしいと思っています。


メディアに惑わされるな!

ここまでメディアの体制を考察してきた僕が声を大にして言いたいのは、メディアには乃木坂46のエースを選別・決定する権利はないということです。そして乃木坂46の運営陣でさえもその権利はないと思います。

では誰にその権利はあるのか。

僕は、ファン一人ひとりこそがエースの決定権をもっていると思います。この理論に則れば、「誰が乃木坂46のエースか」という命題の答えは、ファンによって異なってきます。乃木坂46のエースという存在は、絶対的ではなく相対的になります。

さて、ファン全体にとってそのメンバーはエースではないが、その一人のファンにとっては絶対的エースである、このような概念に心当たりはないでしょうか。

これこそが「推しメン」というものです。そして当然ながら推しメンの決定権は各々のファンにあります。誰を好き、誰を推すのか、それを決めるのは各々のファンによるものであり、この決定権は侵害されるものではないのです。

メディアに惑わされてはいけません。メディアがなんと言おうと、世間がなんと言おうと、誰になんと言われようと、そのメンバーが好きならば、そのメンバーを推し続けていくべきです。

たとえメディアが「〇〇が乃木坂46の絶対的エース!」とか「乃木坂46の次世代エースは〇〇だ!」とかいう内容の情報を発信しても、それはあくまでそのメディアの主張・見解です。「自分がどのメンバーを推すのか」ということには全く関係がない別個の考えです。

確かに大手のメディアが取り上げているメンバーや、多くの人が注目しているメンバーには惹かれるものがあります。人気とはそういうものです。それこそが、推しメンへの愛が試される時だと思います。「誰がなんと言おうと自分はこのメンバーを推す」という強い気持ちが求められるでしょう。恐らく、推されるメンバーはそのようなファンの健気な姿を励みに活動に勤しむはずです。

メディアがエースと主張するメンバーと自分の推しメンが結果的に同一になるも良し、異なるも良し。そして複数人の推しメンがいても構わない。いずれにせよ、ファンは「他者が誰を推すか」ということに惑わされることなく、「自分が誰を推すか」ということを決定し続けてべきです。

メディアの都合など、ファンと乃木坂46には関係ありません。ファンはメディアの意見で右往左往するべきではなく、乃木坂46の運営陣もメディアの都合に合わせて特定のメンバーに活躍の機会を与え続ける必要はないのです。そして、メディアが本当に公平性を主張したいなら、不公平な行いをしていると捉えられるような報道をすべきではないでしょう。

そして僕は、メディアの身勝手な都合から乃木坂46とそのファンを解き放ってほしいと思っています。


メンバーの代替は組織の劣化をもたらす

さて、ここからはメディアが固執している「ポスト〇〇」という概念が如何にナンセンスであるかということを述べていきます。

「ポスト〇〇」という概念が採用された場合、オリジナルのメンバーが抜けた穴を、オリジナルのメンバーに性質が似たメンバーで埋めるという運営が為されることになります。

形式だけの話をすれば、オリジナルの品質をコピーの品質で補填するということです。

当然ながら、オリジナルの品質をコピーが充分に補填できるわけがありません。補填できたとしても、オリジナルの品質の再現度は低いものでしょう。

ことそれが人材であれば尚更です。この世界に全く同じ人間はいないのですから、誰かの抜けた穴を誰かが満足に満たすなんてことは元来不可能です。これは、誰しもが分かっていることですが、それでも蔑ろにされている事実だと思います。

「人はそれぞれ違う」という根本的な認識に立ち返れば、ファンは乃木坂46に対して卒業したメンバーの魅力や価値を求めるべきではありません。

ないものねだりはダメです。それは悪質なクレーマーが行う典型的な迷惑行為です。供給者は、消費者から提供できない価値・商品を求められても応じようがないのです。

そして乃木坂46の運営陣は、卒業したメンバーの魅力や価値を、在籍しているメンバーで埋め合わせるように工作するべきではないのです。

では、ファンが求め、乃木坂46の運営陣が提供すべき乃木坂46の魅力や価値はどんなものなのでしょうか。

それは、現在のメンバーだからこそ作り出せる魅力や価値です。

卒業生が抜けた部分を埋めるべき喪失と捉えるのではなく、新しい魅力を作り出して変化していくための土台となる更地と捉えるべきです。そしてそのためにも、特に卒業生が選抜に起用され続けていたメンバーならば、そのポジションには選抜未経験のメンバーを起用するのが良いと思います。

性質の似たメンバーをオリジナルメンバーの後継者に充てていては、変化の度合いが低く、コピーの品質で補填している状態と相違ありません。それは紛れもない劣化であり、乃木坂46の衰退に繋がります。

だからこそ、誰も予想し得なかったようなメンバーをそのポジションに起用し、変化の度合いを大きくして、全く別個の組織に変容したことを明確に表す必要があります。

メディアは、ことエースというポジションに後継者を求めてきます。そして後継者という言葉から連想されるように、メディアがそのポジションに求めるのは、かつてエースだったメンバーに性質が似たメンバーでしょう。前述したように彼らにとってエースとは都合の良い存在なので、その動きが生じることは容易に想像できます。

そんなメディアに対して、誰も予想し得なかったようなメンバーの起用はこの上ない会心の一撃になるのではないでしょうか。しかも、それはそれで世間が注目する話題であり、メディアは食いついてくるでしょう。

そもそも「誰が乃木坂46の絶対的エースなのか」という命題には白石麻衣さんという明確な答えがあり、彼女の卒業でその命題は終結したと思います。絶対的エースが卒業したのですから絶対的エースの時代は終わったのです。果たして終結した話をまた蒸し返す必要があるのでしょうか。

昨今、乃木坂46はAKB48を越えたと言われています。僕は、なにをもってそのように評価できるか分かりません。僕は、そもそも「越える」という概念が馴染まないと思っています。AKB48と乃木坂46は根本的に異なる組織であり、同一線上にいないために比較できないと思います。

しかし、AKB48と同じようにアイドルらしい女の子がアイドルらしい楽曲で歌い踊っていたら、乃木坂46はAKB48の後を追いかけるだけで、ここまで成長することはなかったと確信しています。

AKB48の公式ライバルというコンセプトを軸に、AKB48が開拓していない舞台等の領域に進出し、なおかつアイドルらしい女の子がアイドルらしくない楽曲で歌い踊るという独自のスタイルを採ったからこそ、乃木坂46はここまで成長したと思っています。

このように、コピーではオリジナルには勝てないこと、そしてオリジナルに勝負すべきはオリジナルであるべきということは、2つのアイドルグループが渡り合ってきた歴史を見るとよく分かると思います。

それにも関わらず、メディアは目先の利益だけを求めて、乃木坂46に絶対的エースのコピーの生成を求めてきます。

いつまでもファン全体にとっての絶対的エースという古い凝り固まった概念に固執していては良くないでしょう。これからは、推しメンはファンによって異なるという原点に立ち返り、乃木坂46のメンバー誰もがファン個別の絶対的エースであると考えていくのが良いと思います。

それはまさに相対的エースであり、ファン全体にとって誰もエースではない、つまり誰もがエースであるということです。特定のメンバーのみに重責を背負わせていくのではなく、メンバー一人ひとりを相対的エースとして、乃木坂46を背負う存在と捉えていくべきです。

そして僕は、「ポスト〇〇」なんて呪縛から乃木坂46を解き放ち、全メンバーに「誰かの代わりになる必要はなく、ありのまま自分で良い」と思ってほしいです。


受け継ぐべきものとは

上述した僕の意見は、乃木坂46が全く別個の組織に変容していくことを推奨しています。現在の乃木坂46が、過去の乃木坂46の比較対象にならないようにする意図があります。

そうすることで「昔の乃木坂46も良いし、今の乃木坂46も良い」という評価を生み出していけると考えています。

しかし、乃木坂46らしさが変わっていくことに不安や抵抗を覚える人は少なくないでしょう。物事においてなにかを変える際には賛否両論が生じるのが当然です。そのような人達にも僕なりの提言を用意しています。なお、提言を結論から述べると、そもそも乃木坂46らしさの変容に懸念を抱く必要はないということです。

ずるくて核心を突く質問をします。
そもそも乃木坂46らしさとはなんでしょうか。

回答できる人・できない人がいるでしょう。
そしてたとえ回答できても、その回答は各個人で異なっているでしょう。

ちなみに、アイドルグループを自称しながらアイドルらしくない人生を説くような楽曲を多く披露したり演劇活動をしたりして独自路線を進んでいること、これこそが乃木坂46らしさとはなにかという質問に対して最も理解されやすいであろう僕なりの回答です。

しかし、やはりそれはあくまで僕個人が見出した僕なりの回答であり、反対意見や異なる意見・見解はいくらでも生じてくるでしょう。恐らく唯一絶対の正解なんてものはありません。

このように、ファンが受け継いでいってほしいと願う乃木坂46らしさとは、どこまでも抽象的で移ろいやすい千差万別のものです。

しかし、一歩引いてみると、誰もが乃木坂46らしさを見出した根幹があることに気づきます。

それは楽曲とそれに付随する振り付けです。
それらは乃木坂46の歴史そのものであり、乃木坂46らしさを象徴しています。

現在の乃木坂46のメンバーがこれまでの楽曲を歌い継いでいけば、根幹に支えられる乃木坂46らしさという概念が失われることはないでしょう。そしてそうすることで現在のメンバーならではの魅力で楽曲の価値や乃木坂46らしさは更新されます。

更新されればそれがオリジナルになり、過去の乃木坂46の比較対象ではなくなります。その結果、「昔の乃木坂46も良いし、今の乃木坂46も良い」という評価を作り出すことに大きく寄与していくでしょう。

言うなれば、ファンが見出した乃木坂46らしさとは楽曲という根幹から派生した枝のようなものです。ファンによって異なり、ファンの数だけ乃木坂46らしさは存在しているのです。

特に3・4期生に多いのですが、彼女達はしきりに「のぎおび!」やLIVE中のMCで「先輩達の大切な曲」や「先輩が立っていたポジションだから責任感をもって立ちたい」という発言をしています。

このように彼女達は、ファンが心配せずとも、先輩達が楽曲に込めた思いやその魂を彼女達なりに解釈して受け継いでいるのです。

先輩達のなかには会ったことがない人達もいるでしょう。顕著な例で言えば、4期生と生駒里奈さんです。生駒里奈さんは乃木坂46結成初期に大活躍した先輩ですが、4期生加入前に卒業しているため、彼女と面識がある4期生はいないかもしれません。

しかし、乃木坂46に加入して生駒里奈さんの存在を知らないメンバーはいないでしょう。彼女の偉大さや存在感は乃木坂46に加入したならば自ずと感じ取るはずです。そうして後輩達は、会ったことがないであろう先輩の思いでさえも、楽曲を歌い継ぐという形で継承しようと努力しているではないですか。

なおかつ、先輩達も後輩達に対して楽曲の継承を進んで行っています。例えば卒業生である西野七瀬さんと中田花奈さんは、「自分達が習ったオリジナルの形を少しでも残しておきたい」という思いから、4期生加入初期に自ら振り付けの指導を申し出ているのです。

このような組織の在り方を考慮すれば、乃木坂46らしさが受け継がれていくことにこれ以上なにかを求める必要はないと思います。また、これ以上のなにかを求められたところで果たして乃木坂46のメンバーは対応できるでしょうか。

乃木坂46らしさは、乃木坂46を構成するメンバーやファンによってどんどん変容していくでしょう。これは受け入れざるを得ない当然の事象です。もはや承認して推奨していくべきものでしょう。しかし、その根幹には決して変わることがない乃木坂46特有の楽曲と振り付けがあり、先輩から後輩へしっかりと受け継がれています。

そのような堅実な継承が行われていれば、ファンが見出す乃木坂46らしさはたとえ変容があったとしても結果的には同じような表現に収まるものになっていくと思います。心配は不要です。

そして僕は、独り歩きしている空疎な乃木坂46らしさという概念から乃木坂46を解き放ち、自分達ならではの乃木坂46らしさを作り上げてほしいと思っています。


持続可能な組織でいるためには

最初に、人気者になるよりも人気者であり続けることのほうが難しいと述べました。

現在の乃木坂46は今まさにこの課題に直面していると思います。何人もの偉大な先輩が「乃木坂46を人気者にする」という課題に取り組み、見事に成し遂げて卒業していきました。そしてその後輩は、より困難な「乃木坂46を人気者であり続けさせる」という課題を負っています。

さて、どうすれば乃木坂46を人気者であり続けさせることが出来るのでしょうか。

絶対的な方法論なんてものはありませんが、僕は「乃木坂46を卒業しても活躍できるように各メンバーを育成すること」が非常に効果的であると考えています。詳しく述べていきましょう。

僕の見解として、アイドルしか出来ない人材が育つアイドルグループの人気や勢いは衰退しやすいと考えています。

メンバーの能力がアイドルに限定化された場合、そのメンバーの卒業は事実上の芸能界引退を意味するでしょう。10代・20代の多感で成長できる時期にアイドルの下地だけを築いた人材が、20代後半から30代にかけて下地がない他の芸能活動をこなすことは出来ないと思います。

ファンはそのメンバーが成長する姿を愛でて、その愛をCDやグッズ購入という消費に変換して応援しているのです。にも関わらず、そのメンバーがアイドルしか出来ない人材であれば、卒業されたら芸能界を引退して二度とその姿を見ることは出来なくなります。

健気に応援していたのに、あの応援や気持ちは何だったのかと落胆することになるでしょう。あまりに虚しく不憫です。

このように、アイドルしか出来ない人材が育つアイドルグループのファンは、「いつか自分達の応援は水泡に帰す」という潜在的な不安を抱えているのだと思います。

当然ながら、消費者は消費に不安を感じたらそれを渋ります。もっと良いお金の使い方があるのではないかという疑問を抱くようになり、その結果、他の商品の購入を検討したり、そもそも購入を却下したりします。

アイドルグループのビジネスで例えれば、現在応援しているアイドルグループを捨て置いて他のアイドルグループのファンになったり、そもそもアイドルグループのファンをやめてしまったりするでしょう。それらはつまり人気の衰退です。

このように「アイドルしか出来ない人材が育つアイドルグループだから、人気が衰退しやすい」という僕の持論は、ファンが抱く潜在的な不安という要素を土台にして因果関係が成立していると考えています。

であればその不安を取り除き、「心の底からこのグループ・メンバーを応援し続けて良い」という安心感をファンに与えることで、ファンは消費を渋らずに売上と人気の獲得に快く協力してくれると思います。

「乃木坂46を卒業しても活躍できるように各メンバーを育成すること」は、そのための手段です。

卒業後も自分が推したメンバーが活躍していれば、ファンは「自分の応援が今の彼女に繋がっている」と実感して、あの時の消費は間違ったものではなかったと思えるでしょう。

そのような未来を見据え、乃木坂46を卒業してもこのメンバーは芸能界で活躍できると確信することで、消費の不安が取り除かれるのです。たとえ卒業してもそのメンバーの成長を見守っていけるという安心感が芽生えます。そしてその安心感はメンバーへの愛を増幅させると思います。

このような構図の例として、平成仮面ライダーを挙げてみようと思います。

全員ではありませんが、平成仮面ライダーで主演や主要な役を務めた多くの俳優はその後も芸能界で活躍し続けています。福士蒼汰さんや佐藤健さんが顕著な例でしょう。そして仮面ライダーは今や有名俳優への登竜門として人気のコンテンツになっています。

このように、将来を期待できる人材を生み出す芸能機関は人気を持続させやすいのです。そして世間はその機関に対して非常に健全なイメージをもつでしょう。

乃木坂46もこの事例に習い、今のメンバーがたとえ卒業しても芸能界で活躍できるように育成し続けていくべきだと思います。

それを意識したわけではないと思いますが、乃木坂46は舞台に代表される芝居の分野に進出し、奇しくも卒業後も活躍できるようにメンバーを育成してきた歴史があります。つまり、やり方は間違ってなかったのです。あとはそれを更に拡大・推進するのみです。

芸能界において芝居ができることはメリットでしかありません。乃木坂46の運営陣には、これまでのように選抜やアンダーに関わらず多くのメンバーに芝居経験を積ませ、乃木坂46を卒業後も活躍できる人材を育成する機関として芸能界に君臨させることを期待します。

なお、その目的が達成されるのであれば、必ずしも分野は芝居である必要はありません。しかし、その目的達成に最も効率的な分野は、タレントでもなく、歌手でもなく、お笑いでもなく、芝居でしょう。芝居は芸能界で最も汎用的なスキルです。

さて、果たして今の乃木坂46に卒業後の活躍を期待できるメンバーがどれだけいるでしょうか。

残念ながら、その数はかなり少ないと思います。だからこそ、今から対策を打つべきです。

コロナ禍が影響し、舞台公演そのものが催されにくくなってしまいました。しかし徐々に回復の兆しが見えています。もし回復が鈍化したら、もはや乃木坂46合同会社が舞台を主催するくらいのことをして、乃木坂46のメンバーを育成していくのが良いでしょう。芸能界や人気に関わらず、人材育成への投資を止めた組織が衰退することは目に見えています。

人材がきちんと育つ組織こそが健全だとするならば、それを目指し続けていくべきです。

そして僕は、乃木坂46の人気はいずれ衰退するという不安から、メンバーとファンを解き放ってほしいと思っています。


まとめ

「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはよく言ったもので、この記事を書いて、乃木坂46やその周りにある歴史を見れば今執るべき行動を見い出せるのだと実感しました。

もちろん、最適解はあっても正解はないのでしょう。僕が述べている意見は僕の主観が色濃く反映されているものであって、必ずしも正しいとは限りません。

5期生の加入が間近に迫っているであろう昨今、乃木坂46には人材育成が強く求められます。ならば今こそ乃木坂46内外に「乃木坂46は人材育成を怠らない組織だ」とアピールする好機です。

そのような組織だと分かれば、メンバーの親御様も安心して娘を乃木坂46に預けることができるでしょう。

ビジネスとは社会貢献であり、関わる誰もが幸せになることを目指していくべきものです。メンバー、メンバーの親御様、ファン、乃木坂46の運営陣、誰もが幸せになるためには、その中心にある乃木坂46がなによりも幸福な状態にある必要があります。

先輩の卒業ばかりに目を奪われてしまってはいけません。変化の土台と、そのための新人を得られるこの最高の好機を逃さず、乃木坂46にはもっとハッピーな状態になってほしいと思います。

以上、「乃木坂46を解き放て!」でした!!

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