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止まったら怖い

意味付け

すぐになんにでも飛びつく方なので、色々な方面からお誘いがあります。

そして、その中で上手くいったもの、上手くいかなかったものがあります。

その決断はどれも間違いではないと考えています。

どの段階でもそれぞれに意味をつけることができれば、私たちの体験は価値があります。

その意味付けが人によってプラスに働く人、マイナスに働く人はいると思いますが、結局は意味付けをするのは私たち自身の選択にゆだねられているところが大きいので、そのような意味では、私たちは自由に動くことが出来ています。

行動力は良い?

行動力があるというのはとても良いことのような見立てをされていますが、行動力があるのではなく、止まったら怖いから、動き続けるとして捉えたらどうでしょうか。

ずっと動かないと、恐怖が襲ってくる、そのような価値観で突き動かされている人を見ても、私たちは行動力があって羨ましいな、と思うのでしょうか。

おそらく、そこまでは思わないと思います。休めばいいのに、とか、止まっても大丈夫なのに、とか思い直すことでしょう。

肝心なのは行動力があるか、どうか、ではなく、どのような目的や意味付で動いているかということです。

私も動く方なのですが、どちらかというと止まったら大変だから動くという動機付けが強いです。

要らぬ不安かな?

私はご存知の通り、虐待問題を意識して起業していますので、いち早く、お金を貯めて、寄付に回し、活動が出来るような動きをしなければなりません。

そうすると私が休むことにより、どこかの子どもが亡くなるという事態になるかもしれません。

とすると、決断を速く、して回転数を上げないと、と思うようになるのです。

実際には極論でしかありません。活動しても、救えないこともあるでしょうし、しなくても助かる命もあると思います。

適切な表現が出来てはいないと思いますが、動かないと、という思いがどうも強いようです。

行動と思考バランスは?

行動が目的に合っているか、という熟考期間は少なめです。

私の中では、止まったら大変、という思いがどこかにあって動き続けているのです。

1つ止めたら、別のもの、みたいな感じで絶えず動いています。

私が死ぬ5年前くらいには全ての活動をつなげてみて、効果を最大にしたいな、と思っております。

行動力と思考期間、どちらに比重を置いていますか?

虐待に関する電話はおよそ4分に1件。来年から児童養護施設の対象の児童が在宅支援になることもあり、さらに発見することが難しくなります。教育と虐待。線引きは明確ではないでしょうが、可能な限り関わっていきます。