【連載】家族会議『空想の人生』
「親戚で一番幸せな家族になろうよ」のひと言から始まったわが家の家族会議。2020年1月6日から約4ヶ月に渡って行った会議の様子を、録音記録をもとに書き記しています。
前回の記事はこちら。
家族会議19回目#4|空想の人生
――抑圧された子供時代を送ってきたと思っていた父にも、友達と楽しく遊んだり、ちょっと悪さをしたりした過去があった。(前回までの記事)
今までそんな話をほとんど聞いたことがなく、「お父さんは背景を全部しゃべらないよね」と、「必要ないだろうって省いちゃうよね」と、そんな話になった。
父が「必要ない」というのは、自分のイメージづくりに必要ない部分であって、わたしたちが父の人物像を知るのには必要なのだけど。
母:
こんな楽しそうなことあったんだね。なんか‥‥
父:
だって、例えばお前が話しするとさ、近所の人と5人くらいで山かけ上がってどうのこうので、終わってるじゃん。
母:
うん。笑
父:
それ聞いて、「あ、そう?」って感じで、なんかそれから何も生まれてないし。俺と大差ないと思うんだけど、なんか違う?
母:
大差ないよね。私とお父さんは大差ないと思うよ。
父:
あそう。
母:
大丈夫。
わたし:
それはそう思う。なんか簡潔にする?何か大事なところを省いてるみたいな。
母:
大事なところは省いて。笑
父:
最悪。笑
わたし:
って感じかな。大事なところを省いて
父:
会社でやったらお前何やってんだって感じだな。
――確かに、母が子供のころのことを話すとき、情景が浮かんできづらい部分がある。逆に父は、情景を事細かに話す。
きのうのブログでの会話でわたしは、父の話が「論理立ってない」といったが、そうではない。父は話が上手いときもある。
だけど、ボロボロのときもある。
違いはなにか‥‥
そうだ。上手いときの話は演出だ。
父は自分を物語るのが上手い。その物語りには、自分を演出しようという意図がある。自伝ではなく、物語りなのだ。
逆に父がボロボロになるときは、気持ちや事実を問われたとき。「本音はなんなの?」「本当はどうだったの?」と聞かれると、物語りの筋書きが崩れ、成り立たなくなってしまうのだ。
父が省いてしまう「大事なところ」は、感情であり、その筋書きに都合の悪い事実。
例えばこれが、一回きりの物語りなら、「そうだったんだね」と聞けるかもしれない。
だけど長年ともに過ごしてきた家族相手にそうはいかない。
父は毎度、一回きりの物語りとして話すのだろう。
演出(意図)は、そのときどきで違う。
だから矛盾が生じてくる。
「あれ?」「前はこう言ってたよね?」となる。
または長い間父を見ていて、その演出に無理があるときも多々ある。
となると、「嘘をついている」「筋が通っていない」ことになる。
母:
お父さん結婚したときさ、道徳の教科書からそのまま持ってきたような言葉をよく言ってたからさ。
父:
そ~お?
母:
こんなの想像できない。
父:
泥棒したなんて平気でよく言うなって?
母:
いやいやそういう意味じゃなくって
わたし:
なんか、お母さんと結婚するときに「こうしよう」みたいな、自分の中で決意してそっちに振ったのかもね。
母:
ああ、そういうところはなかったことに。悪だくみはなかったことにしようと。
父:
ある。笑
わたし:
あと、「親たるものこうあるべきだ」みたいなところで
母:
ある意味ちょっと変だけども、覚悟したという。
わたし:
何かそういうんじゃないかなって思う。
――父の一回きりの物語りは、実に壮大でもある。一回きりの人生を、まるごと物語りにする計画かもしれない。
人生そのものを、すべて空想の世界に放り込んでしまったかのように。
― 今日はここまで ―
「こうなりたい」「ああなりたい」と、空想することはだれにでもあるだろう。そんな自分を演出しようとすることも。
だけど、張りぼての裏を覗きたくなるのが人間だ。
それが見せかけなのだと気づいたら興ざめしてしまう。
現実の世界で演出しようと思ったら、努力が必要なのだ。
空想の世界の自分を、現実でもそうなるようにと。
物語るだけでは、空想を現実にすることはできない。
<次回に続く>
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