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60歳を節目に人生をどう過ごすか、考えていますか?

今、残りの人生をどう過ごすか迷うときがある。

僅かだか残されたお金を使って年に1回くらいいきたい場所で美味しいものを食べ美しいものを観賞する。これがひとつ。

もうひとつあって、SNSで自分が考えていることや世界のことを発信したい。(なんか小さく感じる、正直)

いやいや、もう一度大学に入って勉強をとことんしたい。そして博士号を取って教授になる(ちょっといやらしい)

まだある。自分が一番得意な音楽活動をして(素敵な)楽曲を世間に提供したい。(モテたい!)

一度でいいから晩年3人で一緒に暮らしたかった

誰でも思うとわたくし感じるのは「認知症」になりたくない。ということがあるのではないだろうか?

死ぬ前まで、心身ともに健康を維持し、やむに已まれぬ病気がきたら静かに向き合いたいが、「認知症」=「惨め」とわたくしは思っているのが正直なところで、それだけは勘弁してほしい。

わたくしの父親の最後は認知症だった。只、いつも思うが一定の覚悟があったのではないかと思う。つまり、あまり周囲に迷惑をかけていないからである。

ある日、黄疸がでて病院へ救急で連れていき、即入院となった。

もう少し施設とケアマネには力を入れて欲しかった、と愚痴になる。

救急で血液検査の結果待ちをしている間、二人で横になりながら、わたくしは父を見て、この人は今、死と向き合っている、感じざるを得なかった。

それを思うと、わたくしはまだ若い。脳梗塞で入院したとはいえ、健康にさえ気を遣えば、何だってできる。

父親も母親も天国で、仲良くやってると思う。その分わたくしのことは忘れている筈だ。

だから、毎朝仏壇で南無阿弥陀仏と唱えている。今日も一日頑張るから見といてな、と。

さて、どれを選択したものか?

さあて、わたくしの人生だ。わたくしが自由に決めれる筈だ。しかし世の中そうはさせてくれない。色んなところから(行政や税務署のこと)お金をむしり取っていきよる。

そう、結論が出てるではないか!

女性として生きることがわたくしの一番の願いだった。
その後悔だけはしたくない。神よ叶えてくれ給え(出雲大社大阪分詞)

要はその次だ(まだ言うか・・・)もう少し考えさせてください。

(瑚心すくい)

是非、サポートよろしくお願いいたします。日々自己研鑽し学びの本の購入と色んな団体「盲導犬協会」「国境なき医師団」等への寄付の資金にもしたいと思っています。お礼は更なる良質な記事を書きますのでよろしくお願いいたします。