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他人の意見が自分と違うということ

日本とアメリカの違いでよく言われるのが

日本は協調性を重んじていて、

アメリカは個人の意見を明確に伝えることが良しとされていること。

その具体例になっているかどうか微妙だが、わたしのなかではハンバーガーがそれに匹敵する。

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アメリカでは自分好みの「カスタマイズバーガー」をオーダーできる。

これにはアレルギーや宗教的配慮も含まれているんだろうけど、わたしは勝手にここに個人の主張を感じてしまう。

日本人のわたしからしたら

「いや、英語苦手なんだからさ、何いれる?とか聞かないでいいよ。そもそも好みの味なんて知らんし。もう固定にしてくれ。」と思わずにはいられない。

ビーガンやら健康志向の人にとっては、スーパーでの食材選びから身に着けるものまで、自分はこうだ!と主張できるのは一種のステータスのようにさえ感じる。

大ヒット映画から言葉を拝借するならば、

「This is Me!!!」だ。

子供の学校でも自己の意見は盛大に評価される。

渡米して数か月経ったある日、我が子からこんな話を聞いた。

学校で英語がわからなくて泣いてしまった日があったそうな。

そんな日でも先生は「なにか言いたいことがあるはずだ。泣いてたらわからないから言いなさい。」と。

ちょいちょい。英語わからんから泣いてるんだろ、とつい擁護したくなるところだが、そこがアメリカ流。

自分の意見はしっかりと言わなければ、なにも変化が生まれないことを子供時代からしっかりと叩き込む。

それがたとえ第二言語の子供であろうとも。

一方の日本は個人の主張よりも全体の調和。

ちょっとみんなと違う意見を言おうもんなら「あいつちょっと変わってる」扱いをされる。

それが一つの個性ともてはやされるのは、アパレル関係か時代を読む系のトレンディーな方々の間だけ。

ごく普通のわたしからしたら、上の人の意見は絶対だし、反旗ひるがえすのも面倒だからとりあえず『長いものには巻かれろ』戦法しがち。

それでうまくやってきたし、別に不満もなかった人生だったように思う。まるで人生終わったかのような言い草…

が、

ひょんなことからアメリカに住むことになり、自分の考え方がぎゅるんっと変わっていくのをひしひしと感じている。

あーあ、アメリカにかぶれたね、とは思われたくないのだが、マインドが変わっちゃったんだからしょうがない。

人種のるつぼとも言われるアメリカだけあって、誰もが「同じ」ではない。

人種も国籍も、肌の色も、言語も、宗教も、文化も、さまざま。

Different people have different opinions. (人が違えば意見も違う)

この言葉が一番しっくりくる。

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日本では考えられないこの発想。いい意味でも悪い意味でも日本はみんな一緒が当たり前。

右向け右だし、前ならえ。

変化はなるべく避けたいし、自己を押し殺すのは協調性。

みんながいいならそれでいいよ。

これが今までのわたし。

でもアメリカに住んでみて、わかった。

それじゃあまりにも「自分がなさすぎる」って。

自己の意見を言いすぎて自己中になるのは嫌だけど、考え方は人それぞれだし、他人の意見にムリに合わせる必要はないなって思ってきた。

この思考が定着し始めると弊害も生じる。

それが「わたしはこう思うのにあなたはどうして違うのだろう?」と。

これがこれからのわたしの課題。

自分の意見や考えとなんかあってないなーと思っても、それはそれとして。その人のことを否定してはいけない。

そういう考え方もあるんだね、って受け入れる。

それに同調するかどうかはそのときの流れで。

しかし、価値観があわないと困ることもある。

それは夫婦関係だ。

結婚当初の夫婦の価値観が違っても、長く一緒に住んでいれば自然とそのズレみたいなのはなくなっていくものなのか?

私の場合で言うと我が夫とは非常に価値観が合う

と最近になって強く思う。

これもアメリカ生活のおかげだろうか。

子供たちがだいぶ大きくなってきたことと、わたしにほんの少しばかりゆとりができたのもあって、夫婦で話す時間が増えた。

コロナの影響もあるのかもなー。

お互いのことを語り合うことも増えた。

自分の口から発せられる言葉が日本在住時よりはるかに前向きで、

「人生一度きりだぜ!」的なワイルド思考になっていることに我ながら驚きを隠せない。

日本にいたらこんなつらい思いしなくて済んだのに…なネガティブ発想も確かにあるが、日本にいたら変わらなかったものもある。

我がアメリカ生活

英語学ばずしてマインドを学ぶのであった。

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