自分の名前が愛おしく感じる話
名前
について。
名前の、発祥って知っています?
ここに、ジャガイモがあるとしたら、
ジャガイモは、なぜジャガイモなのか?
???
え?
何言ってるの?
って、思いますよね。
そう、変なんです。私。
というか、
そういう風に考えていた人が過去にいました。
あ、哲学の人です。
名前は、ちょっと、忘れてしまったので、
内容のみ。
石ころと聞くと、
川にたくさんあるやつとか、
ホームセンターで売っているやつとか。
砂糖なんかは、見ての通りで、白い粒粒
でも、一粒一粒、細かいところまで見ていない。
塩と砂糖は、なかなか見分けはつかない。
でも、味は違う。
何が言いたいかと言うと、
名前がある、という事は、違いがあるという事です。
但し、違いがあるから、名前があるのではなくて。
名前によって違いが区別できるようになる。
(この辺のニュアンスが難しい・・・(^▽^;))
ちょっと説明していきますね。
最初のジャガイモの例でいうと、
ジャガイモは、沢山あっても、やはりジャガイモ、
ジャガイモと、石ころは違いますよね。
だから、ジャガイモと石ころは区別が出来る。
でも、ジャガイモだって、
一つ一つ形が違う。
細長いのは、ジャガイモシャープという名前で、
丸いのは、ジャガイモマルという名前だったら、
ジャガイモシャープと、ジャガイモマルという風に分けられる。
今まで、一緒にしていたものが、
名前によって、別なものに見え始めるという事。
ジャガイモと石ころというように、
ジャガイモシャープとジャガイモマルが分けられるという事です。
砂糖もそう、塩もそう。
小さい物質ですが、形によって、名前が違っていたら、それはもう、
別の物質になるという事。
違いがあるから、名前があるというよりは、
名前によって、違いが生まれるという感じです。
人はそういう風に、名前を付けることによって、
区別をしてきました。
ここで、問題です。
もし、区別が無かったら、人間は世界をどのように見るのか?
名前が無かったら。
という事です。
砂糖と塩の区別がなく、
砂糖と石ころの区別がなく、
砂糖とジャガイモの区別がない。
そうなると、もう、全てが砂糖の世界という事。
ちょっと、ぶっ飛んだ考え方なのですが。
そういうこと。
人は、名前を付けることによって、区別をして。
違いを認識しています。
目に見えているから、名前を付けているのではなくて、
人間にとって、区別する必要があるから、
名前を付けているという事。
名前が付いているから、区別することが出来る。
世界は名前で出来ているとも言えます。
そうすると、違いや、名前が凄く愛おしく感じませんか?
人と違っていることが、特徴であるし、
名前が付いていることが、
区別をする最初の一歩という事でもある。
同じものは、この世に一つとしてないのですが、
同じように感じてしまうものは、
同じ名前で呼ばれます。
日本は、どちらかというと、
違い、というものを、悪いという認識をもつ教育をしがちです。
でも、その違いこそが、世界を作っています。
違いが、無かったら、名前がないのと一緒。
違いがあって、名前があって、世界は形になっている。
子供が産まれて、親が名前を付ける。
一人一人、名前が付いているのも、
違いを表現している、世界にたった一人である証拠です。
親が一番最初にする、名前を付けるという行為は、
人と人が違っていて、認識する存在である。
という事でもあります。
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