今週のMornin#67
会話、終えて続く咀嚼、終わらない
記憶を長く深く濃く保持できない。誰かと大事なことを話したり、見たり、聞いたり。それを忘れたくないと思うのは後から。いつでも全てが終わってからだ。記憶の保管でしかないこういうことの集まりが、いつか何かのためになるとは信じている。実際に「最近何か面白いことがあったか」とか「楽しいことがあったか」とか「いいことがあったか」とかの話題を話す時に、日記を見返すと断りを入れて、見返し思い出すことができる。そのおかげで思い出せることが増えると思っていた。実際に増えた。日記を書くことを続けてしばらく経つ。これまでも始めては途絶え、また始めては途絶え。これもいつまで続くかは分からない。終わらないかもしれないし、偶然また風邪でも引いて、書かなくなって、そのまま書かなくても大丈夫になるかもしれない。呼吸のようなものだと思っていたものが実はしなくても死なないもので、呼吸ですら、循環ですら、分泌ですらなかった時に、実は結構悲しくなるのだろうか。自分のことなのに、それも想像の域をでない。そういう不確実性があるのに、日記は毎日頑張って書こうと思えている。一種の贖罪のようにも思っている。
今週のMornin
写真の感想
夕立とスコールともどちらとも言えないような。訪れてもいない台風が運んできた様々な雨雲が東京に多々と尋ねてくる。南から北に向けて、雨雲レーダーを毎日見ていると紅い雨足の強い雲が太々しく飛び込んでくる。自分の行きたい海は今どんな感じなのだろうと心配になる。海、雨の日に近づくのは良くないだろうなと、雨のたびに思う。雨の日の海は本当に荒々しいからだ。海に行けない気持ちを写真に撮った。夕立が降る中。雷も鳴る中。キキョウの花びらの裏側が嬉しかった。
「変わらぬ愛」「清楚」「誠実」「気品」、キキョウの花言葉には聞き覚えがある。たぶん去年も同じ時期に取り上げたような気がする。そういうのを思い出すために、こういうことを続けているのはいいことかもしれない。夕方、夕立、蒸し暑い、地面に落ちているチラシ、解けて剥がれて張り付いていた。
F1.2 SS1/100 ISO4000
NOKTON 35mm F1.2 X mount
セプテンバーさん
区切りに対して焦りを感じる時期だと毎年思う。実際日記を見返していたら去年も一応焦っていたらしい。去年の今はちょっと不安定な身分の時で、確かにちょっと焦っていた安定したかった。結果的に焦りすぎて、選択を誤ってしまったようなところはある結果になってしまったが、あれはあれで教育的で良かった。今は今でさらに自分なりに色々としながら過ごしている。少なくとも去年よりおだやかだなと思う。おだやかかどうか、そういう指標だけで、そういう指標くらいの基準で生きている。誰かが思うよりも自分は真面目に生きているわけではないのだ。何か強くて大きい立派な太い木の幹みたいな大層な理念があるわけでもなく。自分の世界観が確立しているわけでもなく、ふらふらと張りぼてみたいな表面を拵えて、好き勝手やっているだけ。その好き勝手が客観的にどうなのか、と時に見つめ直してめんどくさくなることを十分知っているから考えない。これはこれで戦略なのだ。自分で向き合うことを時に捨てなければいけないのも、そういう戦略の一つに入っているなと最近はよく思う。だからこそ他人とうまくいかない部分もあるとも思うし、ただそれをどれくらいの優先度で対応して改善を目論むべきかと言われると、正直どうでもいい。最低限に、そして最大限に他人より自分の方が大事で遥かに羨ましいのだ。
夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます