見出し画像

今週のMornin#66

制限、自由と踠く

何をしたっていいが、我々には理性や倫理観や道徳や、不文律やモラルや、お約束みたいなものが多々、多岐に、多く存在している。自分は昔からお盆に海に入ることはいけないことだと教えられてきた。海に入ることがそんなに怖くなかった子供時代には、毎年海に入って遊びに出ていた時期があった。灼熱の砂浜に果敢に飛び出し、海に飛び込み、でもそれ以上の記憶がない。地元の海には海の家がなかった。釣りをしている人の方が多いくらいの海だった。長い長い砂浜もあった。遠くに泳ぎに行った記憶もない。戻れなくなりそうになった記憶もない。溺れかけた記憶もない。父に連れて行ってもらったことだけは覚えている。ただ、海の中では1人だった。1人で何をしていたのか全く思い出せない。

sea too


今週のMornin

Complicated


写真の感想

年間パスポートを持っているのにあまり行けていない新宿御苑。単純に時間と余裕がないから、としか言えないのだが今年は去年よりも行けていない。去年は時間と余裕がたくさんあったのだろう。そういう時にしたいことやするべきことを詰めればいいもの、大体はそういう思考には至れない。ぼーっとして時間を捨ててしまうか、それ以下のことしかままならない。行動の主体性って大事だと囁かれるけれど、前提に必要なもののレベルが高すぎるのだ。
この写真は生きているのに、生きているのに、必要とか不要とか関係がなくなって、仕方がないからと、知らない誰かがどこかにまとめて詰め込んでしまった、かのような感覚になった。植物、大小あれど規則性のある生き物だと思っていたからこそ、これくらいの不規則性と向き合うと気味の悪さを感じる。なんだか、やるせなくて、諦めに近くて、抗い難く、どうしようもなくて、誰かもう捕まえてくれよ、みたいな気持ちに。「ライ麦畑につかまえて」を読み返そうと定期的に思い出すのだ。それが今だった。

F3.2 SS1/400 ISO640
NOKTON 35mm F1.2 X mount

秋の風と雲の動き


風が秋になってきた。地表、自分たちが歩いているところの風の強さと、見上げた時の雲の動きから感じる風の強さにやけにギャップを感じる。季節が変わるということは雲や海やその他自然無機物そのものに対しても影響力があるものなのだろう。変化は目に見えて変化だ。匂い、秋の匂いは鼻につく。夏を名残り惜しむように、と言われているような匂いがする。これも毎年思っているような気がする。だから、あまり夏のお花の写真を撮る気になれない。思い出すことを強いられるような気がするから。気がするだけできっと一度もそんなことはなかったはずなのに。そういう呪い・思い出って10年くらい経たないと薄まっていかないと思う。でもそれくらい生きる気も湧かないのにと下を向いて目を閉じて、そういう時に写真を撮っている。

季節の変わり目にもれなく風邪をひくようになってきた。歳だ。

trip


夏はアイス、秋は焼き芋、冬はおでん、春はさくらもちを食べます