赤ちゃんの頃の記憶―24 <耳>
どーも、心郎太と申します。
今回は<耳>について②回目、そして最後です。
次は何を書こうかな~(迷走中)
何かリクエストあればコメント待ってます。
ちょっとだけ今回は愚痴っぽい回になってます。
胎内記憶には大きく分けて2種類あるなと思ってます。
一つは、僕のような感覚的な、自分中心の内向性な話。
二つ目は、最近流行りの、雲の上とか天国、パパとママを選んで生まれた的な、僕なりに言えば視覚やテレパシーを中心としたファンタジーな話。
そして、自分ではなく子どもが話したという外向性な話。
天国ファンタジー勢の勢力が強すぎる!
最近、前世どころか予言まで言いだしてる。
皆様はどう思われますか?
ほとんどの人が忘れてしまったであろう胎内の記憶。僕には今も胎内記憶があります。それらを物語風に書いてみました。ぜひ読んでくださると嬉しいかぎりです。
耳の記憶②
これはおそらく生まれてから数日の記憶だろうと思う。
大人たちが話す『言葉』を聞いても、生まれてすぐの頃はそれを『声』だと認識していた。
犬や猫や鳥の鳴き声を聞いて、『言葉』だと思うだろうか?
そういう鳴き声だと、犬が鳴いてる、猫が鳴いてる、鳥が鳴いてる、とおもうのではないだろうか。
それと同じに聞えた。
自分も泣いていた。
声を出していた。
大人たちも少し違った感じで、複雑な『声』を出しているように聞えた。
『言葉』だと理解できるようになって初めて、『言葉』に聞えた。
言葉だと理解してからは、意味は分からなくても言葉に聞えた。
それは知らない外国語を聞くのと似たような感覚だ。
この記憶からもわかるように、胎内の子に言葉を聞かせても、それが言葉だと理解できるとは思えないのである。
胎教とかで呼びかけやクラシック音楽を聞かせたりするなんて話がある。
まず、こちらの世界で聞く音と、胎内で聞える音のメカニズムも聞こえ方も違うだろうし、こちらの世界の普通を押し付けて意味があるのだろうか?
結論を言えば、今の世の中で言われている、胎教は赤ちゃんには意味がない。
ただそれが悪いということではない。
お母さんが心地よいならそれでいいと思う。
仮にどうにかして、外の世界の言葉を聞かせることができたとしても、外の世界があるともわからず、自分以外の何者かがいることもわからない中で、それを『言葉』と認識できるだろうか?
『声』または『音』くらいには認識するかもしれない。
ここ最近の科学的でない、胎内記憶や胎教を見ていていろいろと思うことを言ってしまった。
つづく
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